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2021.9.12ヨハネの黙示録21 章1~4 節「新しい天と新しい地」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2021年9月11日
  • 読了時間: 8分

牧師 松矢龍造


今月の最初に教会員の方の納骨式を執り行いました。葬儀礼拝や納骨式の際に、今日の御言葉を拝読する機会がよくあります。キリストの救いに預かった兄弟姉妹たちは、死後の世界において、主な神様は「目の涙を、ことごとく、ぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」

これは迫害下でも、殉教者や、事故や病で天に召された兄弟姉妹であっても、永遠の慰めと希望です。ご遺族にとっても、司式をする私にとって、永遠の慰めと希望です。けれど、その素晴らしさは、あまりにも、すごいものであって、聖書の御言葉ですら、消極的な表現で、何々がないとしか表現できないくらい素晴らしいことです。人間の言葉では、全てを表しきれないほどのものです。

目に見えるものは、すべて過ぎ去っていきますが、神様と神の御言葉、そして信仰と希望と愛と、信仰者の存在は、永遠に続きます。

詩編102 編26~28 節「かつてあなたは大地の基を据え、御手をもって天を造られました。それらが滅びることはあるでしょう。しかし、あなたは永らえられます。

すべては衣のように朽ち果てます。着る物のようにあなたが取り替えられると、すべては替えられてしまいます。しかし、あなたが変わることはありません。あなたの歳月は終ることがありません。」

旧約聖書の創世記1 章で、七日の創造が記されています。そして一日ごとの終わりに、「夕があり朝があった」とあります。しかし七日目だけは、「夕があり朝があった」がありません。それは世の終末において完成する時を待っているようです。

新天新地の預言は、旧約時代からありました。イザヤ書65 章17 節「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。」66 章22 節にもあります。「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前に永く続くように、あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと、主は言われる。」

この新天新地は、今の物理的な世界も含めて、全てが新しくなるのか。それとも、物理的な世界は、そのままで、一切の悪と罪と死がなく、反キリストの勢力の全てが、火の池に投げ込まれた、質的に新しい世界になるのか。二つの説があります。

ペトロの手紙二3 章10~12 節を見ると、物理的にも新しくなるように受け留められます。「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。

このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。」

しかしローマの信徒への手紙8 章19~21 節を見ますと、新しい世界になりますと、被造物は、滅びへの隷属から自由されます。ですから、被造物の意識が残されているようにも受け留められます。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」

今日の御言葉であるヨハネの黙示録21 章1 節では「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。

最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」とあります。最初の地は去って行きと訳された言葉は、消え去るという意味を持っています。しかし2節で「新しい」と訳された言葉は、時間的な新しさという意味の言葉ではなく、質的な新しさという意味の言葉が使われています。

私たち人間は、主イエス様を信じる恵みに預かるなら、贖われ救われ、魂は永遠に生き、朽ちる この肉体は滅んで、永遠の体を頂きます。古い自分が、同じ人格でありながら、新しくされ、質的に新しい自分に変えて頂ける。そのように受け留めることで、止めておくのがよいかと思われます。

神様との永遠の生活は、私たちに想像きるものよりも、ずっと素晴らしいものであると知るだけで十分であるかもしれません。最も素晴らしいことは、これから来ます。

21 章1 節で、新天新地には「もはや海もなくなった」と言われています。ヨハネの黙示録が記された時代に、海は危険で変わりやすく、不安と動揺の象徴のように見られていました。また海は、獣すなわち反キリストの勢力が出てきた源でもあります。ですから、新天新地において、海がないということは、人間に対して持っている敵対的な性質や、不安と動揺をもたらす悪の性質が、すべて失われることを示しています。

2節「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。」新しいエルサレムとは、キリストの花嫁である教会、すなわち聖徒たちの集まりのことです。それも信徒たちが立派になって昇天するのではなく、神様の側から、地上に降って神の国が完成するということです。

そして教会の起源が、神様にあることをも示しています。

この都は、花婿なるキリストに出会う支度が整った、花嫁なる教会として描写されています。3節「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、」。神の幕屋は、神様の臨在を現わし、身代わりに血によって和解する場所でした。この神の幕屋が、人との間にあることによって、神様と人との関係が、アダムとエバが、罪を犯す前の状態に回復されることを示しています。

私たち人類は、罪によって神様との調和が失われていましたが、キリストの贖いと救いに預かるなら、信仰者の内には、霊的、原理的に回復します。そして新天新地がなる時、完全な回復に至ります。それは、レビ記26 章11~12 節の完全な実現です。「わたしは、あなたたちのただ中にわたしの住まいを置き、あなたたちを退けることはない。わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。」

そしてエゼキエル書37 章27 節28 節の完全な成就もあります。「わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。わたしの聖所が永遠に彼らの真ん中に置かれるとき、諸国民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」

そして4節「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」すべての悪の力は滅ぼされ、火の池に投げ込まれて永遠に滅びます。これに対して、救い主キリストよって救われた者たちは、永遠の祝福が用意されています。それは神様を愛す者たちにとって、本当の充足と永遠の喜びです。神様が治める場所はどこでも、真の平和、安全、愛と真実があります。

新天新地、それは人間が生んでしまった全ての落とし子がない世界です。また人間の社会を醜くしていた全てのもの、悲しみ、苦しみ、そして死そのものが過ぎ去ってしまった世界です。そして悪、戦争、病、冒涜で満ちた最初の地は去って行った世界です。

積極的な表現では、新しくされた世界において、あらゆる人類の間に、調和と安全が回復します。

イエス様は言われました。マタイによる福音書24 章35 節「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

ですから過ぎ去るものは、常に軽く掴み、永遠に残るものだけを、しっかりと掴んでおくことが常に重要です。コリントの信徒への手紙二4 章17 節18 節「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。

わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

最後に、この新天新地に入れて頂けるのは、ただ神様の恵みによると受け留めましょう。ハ・ヒョンロクという方が「アメイジング・グレイス・驚くばかりの恵み」という題で次のように言われています。「ある牧師が、空のコップを講壇の横において説教を始めました。『今朝、ある少年が空のコップを持って通り過ぎていくのを見ました。コップの中には小さな小鳥が3羽、寒さに震えていました。

その鳥で何をしようとしているかと、少年に聞いてみると、その少年は、鳥で遊んでから、動物に、えさとして投げ与えるのだと答えました。私は、所持金をすべて渡して、その鳥を買ってから、鳥を放して自由にしてあげました。

ところで、私たちは、鳥かごの中に入れられた鳥のような存在だったということを知っていますか。私たちは、サタンに捕らえられ、嘲られ、踏みにじられて、最後には死ぬ運命にありました。ところが、イエス様が、私たちを生かすために、代価を払ってくださいました。それは、いくらかのお金でできることではありません。イエス様が、血と涙と命まで、すべてを注がなければならないことでした。私たちが、今この場にいるのは、イエス様が自ら、すべてを献げて私たちを救ってくださったからなのです。』

父がハンセン病患者の村で、牧会をしていたので、私も多くの人から、からかわれました。アメリカに来てからは、人種差別を受けました。そのときには、私が何の価値もない存在のように感じました。しかし、イエス様が私と共に嘲られ、苦しまれ、永遠の命を与えるために、御自分の命を犠牲にし、私を生かしてくださいました。これが、私が受けた恵みであり、すべての人に条件なく与えられた驚くばかりの恵み・アメイジング・グレイスなのです。」

主に愛されている皆さん、新天新地がやがてます。そこに入れるのは、ただただ、驚くばかりの神様の恵みです。その恵みに応えて、主の働きを、御聖霊様によって、行ってゆきませんか。

お祈り致します。

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