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2021.9.19ヨハネの黙示録21 章5~8 節「命の水の泉の者と、火と硫黄の燃える池の者」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2021年9月18日
  • 読了時間: 8分

牧師 松矢龍造


神の御言葉である聖書には、創造なる神様による、宇宙の創造という壮大なことで始まり、新しい天と新しい地の創造のことで集結します。そして聖書には、三つの大きな完成が記されています。

第一の完成は、物理的に創造の仕事が完成したことです。創世記2 章1~3 節「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」

第二の完成は、救い主イエス様の十字架における罪の贖いの御業が完成したことです。ヨハネの福音書19 章30 節「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」

そして第三の完成は、父・子・御霊である三位一体の神様が、救いのご計画全体を、キリストにあって贖われ救われた者たちを、新しい被造世界へと招くことで完成します。

宇宙万物の創造と、キリストの十字架と復活、そしてキリストの再臨よる救いの完成は、私たちが常に覚えておくべき、重要な信仰の内容です。

イエス・キリストのことを、アルファであり、オメガであると言われています。新約聖書の原典は、ギリシア語で記されています。このギリシア語のアルファベットの最初は、アルファあり、最後はオメガです。それで初めであり、終わりであるとも言われています。

これは、創造者なるイエス様が、始まりと終わりを司っておられ、そしてその間にある全てのものも支配されているお方であることを示しています。ですから、創造時の時点でのアルファは、すでに完成であるオメガを保証します。これが人間と違った、神様の主権性です。人間は、たとえ何かを初めても、最後までやり遂げるとは限りません。しかし全知全能の主なる神様は、始めたなら、必ず完成させるお方です。

それではもう一度ヨハネの黙示録21 章5 節「すると、玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、『書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた。」

万物を新しくするとは、原文は、時間的な新しさという言葉ではなく、質的な新しさを示す言葉となっています。これまでなかった、今まで経験したことがない、新しさです。これは今の地上の物質の全てが新しくされるのか、それとも悪がまったくなくなる新しさなのか。どちらなのか分かりません。

私たち人間に対しては、今の朽ちる肉体は滅び、新しい罪のない性質と、永遠の体が与えられるようになります。

加えて神様の言葉が信頼でき、真実なのは、神様は偽りを語ることは決してなく、常に真実なお方だからです。ヘブライの信徒への手紙6 章18 節19 節「神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。」そしてもう一つ、預言されたことを、主はことこどく成就されて来たので、信頼できる真実な言葉なのです。

6節「また、わたしに言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。』」

渇いている者とは、誰のことでしょうか。神の御前で、自分の心の貧しさに気づいている者、また自分が惨めで裸である者であることに気づいている者、そしてそれ故に救い主なるイエス様を求めて渇いている者のことです。加えてさらに言えば、神様の義に飢え渇いている者のことです。

渇いて、主イエス様を求める者には、命の水の泉から、値価なしに飲ませて頂けます。すなわち真の命であるキリストを求める、渇きを持つ者だけに与えられます。価なしである

のは、キリスト、十字架で私たちの罪の代価を完全に支払ってくださったからです。このキリストの命の水を飲む者は、その人の内に泉となって、永遠の命への水が湧き出ます。

ヨハネによる福音書4 章14 節「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

7節「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。」受け継ぐとは、相続のことです。相続において、最も重要なことは、子として扱われる身分のことです。相続は、子としての身分に扱われる者にだけが預かることができるからです。

キリストを信じる者には、神の子とされる特権が与えられます。

ヨハネによる福音書1 章12 節「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」

神の子とされる為には、少なくても、四つのことが必要です。第一に、神様の約束があることです。ガラテヤの信徒への手紙3 章29 節と4 章7 節「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」

第二に、相続はキリストによります。ローマの信徒への手紙5 章1 節2節「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」

第三に、神様の恵みによってです。エフェソの信徒への手紙2 章5 節と7節「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、あなたがたの救われたのは恵みによるのです。」「こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。」

そして四つ目に、信仰によってです。ローマの信徒への手紙4 章16 節「従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。」

しかし逆に、火と硫黄の燃える池に投げ込まれるという第二の死を迎える者たちがいます。ヨハネの黙示録21 章8 節「しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」

八つの不幸なことが記されています。一つ目の、「おくびょうな者」とは、反キリストである獣の脅しを受けた際に、人間を恐れるあまり、キリストを否定し、反キリストを拝する者たちのことです。

二つ目の「不信仰な者」とは、神の国に入ることを、自分から拒否する人々のことです。さらに言いますと、口で信じると言いながら、その言行や生活で信仰を立証しない人のことです。

三つ目に「忌まわしい者」とは、おもに皇帝礼拝の参加者を指しています。

四つ目に「人を殺す者」とは、文字通り、人を殺す者のことですが、迫害によって、信仰者を殺す者たちを特に指しているかもしれません。

五つ目に「みだらな行いをする者」とは、不品行や姦淫をなす者のことです。

六つ目に「魔術を行う者」とは、悪霊と交わる者のことです。

七つ目に「偶像を拝む者」とは、偶像を拝んで、唯一の神様を侮辱する者のことです。

八つ目に「すべてうそを言う者」とは、不信実で不誠実、うそを言う人たちで、沈黙で、うそを肯定する者もその類です。

ここに挙げられています8 種類の罪を犯したことのある者が、すべて新天新地に入れないということではありません。それであったなら、誰も新天新地に入れないでしょう。悔い改めて、主イエス様を信じる者であるなら、命の水の泉から、価なしに飲ませて頂き、新天新地に入れて頂けます。

しかし悔い改めず、こうした悪に根強く固執する者たちは、火と硫黄の燃える池に、投げ込まれます。燃える火は、真の主なる神様を否定する人々に対する神様の裁きを表現するものです。

加えて第二の死とは、第一の死が肉体の死のことであるのに対して、第二の死は、霊的に死んだままの状態であり、永遠の苦痛または、破滅を意味します。どちらにしても、神様からの永遠の分離のことです。

ローマの信徒―の手紙6 章33 節「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

人生の苦難や迫害などの時に、大胆さと勇気を持つためには、ご聖霊に満たされることが必要です。またどんな圧力やプレッシャーに直面しようと、正しい行いが出来るように勇気と力が必要です。これも父なる神様に祈ることが大切です。そして悪い者たちからの試練に耐えて、忠実であり続ける者には、主イエス様から、天での報いが与えられることを覚えることが重要です。

最後にイ・チャンスという方の「主に拠り頼む信仰」という内容を受け留めます。「自分の力に拠り頼み、神様の御前に立つとうとするなら、失敗します。イエス様がおられなければ、意味がないということを知ることが、働きの基本です。私は全く無力なので、どんなことでも、神様に拠り頼む心を持たなければなりません。

『ただ主にすがり、日ごと夜すがら、御手に委ねて、恐れず進まん』新聖化312 番と讃美し、日ごとにイエス様の十字架を覚え、拠り頼むとき、神様に喜ばれる礼拝者として立つことができるのです。」

主に愛されている皆さん、無力さを常に忘れず、父・子・御霊様に拠り頼んで、命の水の泉から価なしに生ませて頂ける恵みの証人とされませんか。お祈り致します。

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