2021.9.26ヨハネの黙示録21 章9~21 節「天からの聖なる都エルサレム」
- CPC K
- 2021年9月23日
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牧師 松矢龍造
起
世の終末において、新しい天と新しい地がなる時、その天からの聖なる都エルサレムは、どのようなものなのでしょうか。ヨハネの黙示録が記された1900 年前の読者たちは、この天からの聖なる都エルサレムの住人になりたいと、迫害下の中でも、命をかけました。
新しい天からの聖なる都エルサレムとは、全時代の教会あるいは、全ての教会の信者たち
が住むことになる場所のことです。この聖なる都の栄光は、神様の栄光でもありますから、
それを人間の言葉で表すことには限界があります。その偉大さや威厳と輝きを何とかして言い表すために、様々な宝石の表現がなされています。それほどに、神の栄光は、この都つまり、聖徒たちの内に満ち溢れているということです。
承
今日の御言葉である21 章9 節~21 節は、この新しいエルサレムの外観が記されています。そして次回の22 節~22 章5 節には、その内観となります。
9節~10 節をもう一度拝読します。「さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。『ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。』この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。」
七人の天使とは、大淫婦なる反キリストの勢力に対して、裁きを見せた天使と同じと思われます。この天使たちが持っていたものは、七つの鉢と言われています。鉢は平鉢ですから、瓶や水差しよりも、平らなので底が浅く、中身がすぐに空になってしまいます。これは神様の裁きが速やかに起こることを暗示しています。
小羊は、キリストのことであり、花嫁は、ここでは新しいエルサレム、すなわち時代と空間を越えた、聖なる公同の教会、普遍なる教会全体のことです。霊とは、ご聖霊のことです。
転
この都の輝きは、12 の宝石によって表現されています。この12 の宝石は、旧約時代、大祭司が胸当にはめられていた、12 部族を象徴する12の宝石に似ています。
11~14 節「都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。
都には、高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻み
つけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。」
12 の門には、イスラエルの12 部族の名があり、城壁の12 の土台には、12 使徒の名が刻みつけてあります。これは旧約時代と新約時代の全キリスト者である聖なる公同の教会のことです。土台に12 使徒の名とあるのは、使徒たちが、キリストに関して教えて生き、教会の礎を据えた事実と関係があるでしょう。
エフェソの信徒への手紙2 章20 節「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身である。」
続いて15 節16 節「わたしに語りかけた天使は、都とその門と城壁とを測るために、金の物差しを持っていた。この都は四角い形で、長さと幅が同じであった。天使が物差しで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。」
金の測り竿で測るということは、その都の大きさが、神様の計画と目的に一致することを象徴的に示しています。ですから測られた大きさが、統計的で物理的な数を意味するものではないでしょう。
この都が四角形で、長さと幅が同じであるとは、左右対称シンメトリーの完全な調和なものであることを示されています。1 万2 千スタディエンの長さとありますのは、三位一体の神様である3 と、地を表す4 をかけて12、そして人口の莫大な集合を表す千からなると言われます。そして都の寸法は、神様の民全員が入ることができる場所を象徴的に示したものでもあります。17 節「また、城壁を測ると、百四十四ペキスであった。これは人間の物差しによって測ったもので、天使が用いたものもこれである。」
144 ペキスとは、主の民として額に神様の名が印されている14 万4000 人と関連があるでしょう。12 部族と12 使徒と強調する千をかけ合わせて、完全に救われている神の民のこと、14 万4000 千人です。1 ペキスは、約50 ㎝ですから、城壁の厚さのことで、完全数12 にもうひとつ12 をかけ、144 となり、完全な守りが示されています。そして完璧な場所であることを示しています。
続いて18 節~20 節「都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった。都の城壁の土台石は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。」
都の城壁は、碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であったとありますのは、混じりけのない、きよさを示しています。
土台石の第一の碧玉は、通常、赤茶ですが、ここでの種類は、恐らく貴重な緑か透明色です。第二のサファイアは、青色です。第三の、めのうは、円状に茶と白が入っています。第四のエメラルドは、緑色です。第五の赤縞めのうは、色々な縞があります。第六の赤めのうは、濃い赤か、赤みのある白です。第七の、かんらん石は、オリーブ色の緑です。第八の緑柱石は、緑か青みのある緑です。第九の黄玉は、黄色です。第十の、ひすいは、澄んだ黄緑色です。第十一の青玉は、赤みのあるオレンジ色です。第十二の紫水晶は、深みのある紫です。
これらの12 宝石と貴石は、色々な輝きの石であり、輝きと共に、耐久性のある場所であり、永遠に続くことを明らかにしています。新しい住まいに、がっかりさせられることは決してないでしょう。
続いて21 節「また、十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。」
門と訳された言葉は、原文では「入口の通路」という意味でもあります。この門あるいは、入り口の門が、一個の真珠できていたとあります。人間の想像を越えた美と無限の富を表しています。そして真珠は、アコヤガイなどの貝の中に玉を入れると、貝は苦痛の中で真珠色の液体を出してこれを包みます。これが真珠となります。
これが一個の大きな真珠となるとは、主と人々の為に受けた大きな苦痛が、天では真珠のように、十字架と復活のキリストにあって、真珠のように輝かせて頂いて、この都に迎え入れらことを象徴しているのではないでしょうか。
さらに言えば、教会とは、救い主が持てる、全てのものを売り払ってまで買い取られた、高価な真珠であることも想起されます。マタイによる福音書13 章45 節46 節「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」
結
救い主が、全てを投げ売って、買い取って下さった教会です。そしてまた初代教会の人々が、迫害下の苦しみの中で、命をかけたものが新しいエルサレムです。ならば、私たちはこの恵みと犠牲の愛と福音に対して、何を捧げるべきでしょうか。
最後に、ユ・ジンソと言う方の「主の御前に立つ」という内容を受け留めます。「『驚き仰ぎ見る』という讃美の最後のフレーズに、『主の御前に立ち』という歌詞があります。この讃美の英語のタイトルは、『I Stand In Awe Of You』で、『私は主をおそれかしこまる』という意味です。
主の御前に立つとは、別の言い方をすると、主を礼拝することなのです。私たちが考える礼拝の姿は、御前にひれ伏したり、ひざまずいたりすることです。しかし聖書では、特に感動的な礼拝をささげるとき、『手を上げる』という表現をよく使います。
これは礼拝の重要な要素を、そのまま表しています。つまり礼拝は、できないような感情や状況を振り払って、神様を見上げ、神様に向かって手を上げて祈れば、礼拝が始まるということです。礼拝は、霊的な戦いなので、それほどの決断が必要なのです。
正しい礼拝をささげるための重要な要素は、『聖さ』です。つまり、クリスチャンが、まことの礼拝者として立つためには、区別されなければならないということです。『私は世に属さず、世とは違った生き方をします』という信仰告白があるとき、私たちは正しい礼拝をささげることができるのです。
それが、主の御前に立つ者の姿勢です。主のことばに従い、主のみこころに従って、礼拝者の使命に従って、決断して立てば、そのときから、主の御前に正しく立つことかでき、人生が開かれるのです。」
神様に愛されている皆さん、やがて主の御前に立つそのとき、素晴らしい天のエルサレム、壮大で輝きに満ちた恵みに包まれます。御聖霊様の助けを祈り、世に属さず、世とは違った聖なる生き方と、証しを、この世において、なして行きませんか。
お祈り致します。

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