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2021.9.5 ヨハネの黙示録20 章7~15 節「命の書と火の池での第二の死」

牧師 松矢龍造


未来は不確かで分かりません。しかし確かなことがあります。それは、人は一度死ぬこと、死後に誰もが最後の審判の前に立たされること。そしてキリストが再びこの地上に再臨されるということです。

ヘブライの信徒への手紙9 章27 節28 節「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」

最後の審判の際に、私たちが地上で行った、すべてのことが記されている書物に基づいて、私たちの行いに応じて裁かれます。その行いには、二つの側面があります。一つは、消極的な側面、すなわち罪を犯した事柄です。そしてもう一つは、なすべき良きことをなさなかったという積極的な側面です。簡単に表現するなら、なしたる罪と、なさなかった罪の両方のことです。

自分のした事に関しては、その時の目的、動機、感情そして活動と行為のことです。なさざることで言えば、委ねられた才能、賜物、機会、責任をどのように扱ったかです。

主イエス様は、最後の審判のことで、つぎのように言われた場面がありました。マタイによる福音書25 章31~33 節「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」

右側にいる人たちに40 節「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」

左側にいる人たちにも言います。45 節「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』」

そして最後に46 節でこう言われています。「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

今日の御言葉では、サタンの最終的な完全な敗北と、私たち人間に対する最後の審判が預言されています。あらためて20 章7 節8 節「この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。」

サタンが、一時、底なしの淵から解放されるのは、何の為でしょうか。それは恐らく、サタンに組する悪の勢力が誰であるか明らかにされるためです。その為に、一時、サタンが解放され、悪の勢力を集めさせるのでしょう。

続いてゴグとマゴグとは、誰のことでしょうか。旧約時代の預言者エゼキエルは、当時イスラエルの北の方から、イスラエルの人々を攻撃しようとしたマゴグの王ゴグの、よこしまについて語っています。エゼキエル書38 章2節3 節「人の子よ、マゴグの地のゴグ、すなわちメシェクとトバルの総首長に対して顔を向け、彼に預言して、言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの総首長ゴグよ、わたしはお前に立ち向かう。」

預言者であるエゼキエルは、イスラエルに反抗する勢力の指導者としてゴグとマゴグを紹介しています。しかしヨハネの黙示録おけるゴグとマゴグとは、特定の人のことではなく、反キリストの勢力の象徴的名称です。あるいは神様と神の民に敵対する、この世における、すべての強国を代表する名称、それがヨハネの黙示録でゴグとマゴグという名の意味でしょう。

そしてこのゴグとマゴグの勢力は、イエス・キリストへの信仰と畏れを、地上から抹殺しようとします。20 章9 節「彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。」一時サタンが、底なしの淵から解放されて、反キリストの勢力であるゴグとマゴグを集めて、神様の民と戦わせようとします。ところが、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くします。

旧約時代には部分的な火の裁きがありました。預言者エリヤの時代では、列王記下1 章10~12節です。「エリヤは五十人隊の長に答えて、『わたしが神の人であれば、天から火が降って来て、あなたと五十人の部下を焼き尽くすだろう』と言った。すると、天から火が降って来て、隊長と五十人の部下を焼き尽くした。

王は再びもう一人の五十人隊の長を、その部下五十人と共にエリヤのもとに遣わした。隊長が、『神の人よ、王が、『急いで降りて来なさい』と命じておられます』と言いかけると、エリヤは彼らに答えて、『わたしが神の人であれば、天から火が降って来て、あなたと五十人の部下を焼き尽くすだろう』と言った。すると、天から神の火が降って来て、隊長と五十人の部下を焼き尽くした。」

またエゼキエル書38 章22 節では「わたしは疫病と流血によって彼を裁く。わたしは彼とその軍勢、また、彼と共にいる多くの民の上に、大雨と雹と火と硫黄を注ぐ。」

さらに最後には、サタンに対して言われています。ヨハネの黙示録20 章10 節「そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。」

ここには、悪魔にとって最後の裁きが記されています。サタンが、火と硫黄の池に投げ込まれますと、サタンは二度と誰かを脅かすことはなくなります。この火と硫黄の池に投げ込まれるとは、永遠に責めさいなまれることになるのか、それとも永遠に滅んでしまうのか、二つの説があります。どちらかは断定が出来ません。

続いて、11 節「わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。」大きな白い御座とは、神様の裁きの座のことです。その権威の偉大さの故に、大きなと言われています。また完全な正義と聖さの故に、白いとも言われています。そして主イエス様は、死と陰府ハデスの鍵を持っておられます。ヨハネの黙示録1 章18 節「また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。」

黙示録20 章12 節「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」

幾つかの書物とは、恐らく、地上での人々の行いを記した書物のことでしょう。そして命の書とは、父なる神様によって救の為に選ばれた人の名前が書かれていると言われています。エフェソの信徒への手紙1 章4 節「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」

人が救われるのは、信仰によって義とされ、行いによるのではありません。しかし救われた後の行いは、その人の神様との本当の関係の確かな証拠として見られます。私たちは、救いという神様の恵み深い賜物によったとしても、忠実な従順と奉仕の責任から解放されるのではありません。むしろ神様の愛と、イエス様の犠牲と愛に応えて、忠実な従順と奉仕へと向かいたい。感謝と愛を持って応えたいと思い行うことが、救われた者たちのしるしとなります。

私たちは、それぞれ自分の知る限り、最高の方法で、キリストに仕えます。そして最期のある日に、天にある書物が開かれることを意識しながら、毎日を生きることが、救われた者にふさわしいです。私は、天の書物が開かれたなら、恥ずかしいことがあります。少しでも、ふさわしい行いが出来ますように、御聖霊なる神様に、その助けを日々祈っています。

13~15 節「海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。」

第一の死とは、肉体の死のことです。そして第二の死とは、最期の審判の後に有罪となり、火と池に投げ込まれることです。これも永遠に責めさいなまれるのか。永遠の滅びとなるのか解釈は分かれます。いずれにしても悲惨であることに変わりはありません。

最後の審判の後の新しい時代には、罪も死も不完全さも、永遠に存在しなくなります。それは私たちの心を引き付ける魅力と喜びに満ちています。その命と心の豊かさを覚えて、今の時の艱難を、主にあって忍耐して待ち望むことが出来ますように。

コリントの信徒への手紙二4 章16~18 節「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。

わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

最後に、パク・ヒソクという方の「最後まで責任を取ってくださる神様」という内容を受け留めます。「アメリカに留学していたとき、英語力が足りなかったため、食事をする時でも、本を手にしていたほどでした。財政的に困難だったため、授業が終わったら、休む間もなく働かなければなりませんでした。生きることが楽しくありませんでした。

私は、つらくてたまらないとき、シカゴにあるミシガン湖を見に行きました。目の前に広がる海のような湖を見ていると、忙しくしているときには感じられなかった神様の恵みを感じることができました。

『ここまで来たのだから、この天地を造られた神様が、最期まで責任を取ってくれるだろう』と思えるようになり、力を得て戻って来ることができました。必ずしも海までも行かなくても、時には動かしている手を、しばし止めて、深呼吸してみてください。深く息をしながら、自分は全宇宙で生きている唯一の存在だという思いに浸ってみてください。

考えてみれば、食べ物があり、横になれる場所があるだけで感謝です。成功や出世のために生きてはいけません。過ぎてみれば、すべては空しい栄光です。高い空、広い野を見てください。神様は、いかに憐れみ深い方でしょうか。貧しい人も、失敗した人も、窓さえ開ければ、見ることができるように、太陽を空の上に置かれました。美しいこの世を見つめながら、それよりも美しい天の御国の相続者としての身分が、私たちに与えられているということを思い出してください。神様が、与えてくださった今日という日、今この瞬間を楽しみましょう。」

主にある愛する皆さん、キリストを信じて命の書に名が記されているなら、最も素晴らしいことは、これから来ます。第二の死は、全く恐れる必要がありません。そして命の書に一人でも多くの人々が記される為に、キリストにある感謝と恵みと特権を、隣人に対して、祈りつつ、証ししてゆきませんか。お祈り致します。

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