2021 年12 月1~2 日 アドベント祈祷会
- CPC K
- 2021年12月3日
- 読了時間: 9分
ルカによる福音書1 章5~25 節、57~80 節
「祭司ザカリアの讃歌に学ぶ」
牧師 松矢龍造
起
今年のアドベント・待降節が、11 月28 日から始まりました。今年もクリスマスの讃美を、今週の始めである主の日から歌い始めました。このクリスマスの讃美あるいは讃歌を一番最初に歌ったのは、バプテスマのヨハネの父ザカリアでした。
ザカリアの讃歌は、旧約時代の最後の預言の歌・預言歌とも言われています。同時に、新約時代の最初の預言歌とも言われています。讃歌は、「ほめたたえよ」という意味で、ラテン語では「ベネディクト」と言われています。
私たちは、このアドベント・待降節の一か月間に、多くのクリスマス讃美をすると思います。その際に、一番最初のクリスマス讃歌を学び、その讃美の信仰と精神を受け留めて、今年のアドベントの備えの一つと出来ますように。
承
ザカリアは、ユダヤ人の祭司の一人でした。当時イスラエルには、国中に2 万人の祭司がいたと言われます。旧約時代のダビデ王は、この祭司の集団を、千人ずつ、24 組に分けました。ユダヤ人の祭司は、神殿を管理し、人々に聖書を教え、礼拝を指揮する働きをする、神様の代理人でした。
祭司は、年に2 回、各一週間、当番で神殿奉仕に当たります。そして祭司の務めにおいて、最も大切なことは、犠牲を捧げた後に、神殿の中で香を焚き、祈ることでした。その際には、大勢の民は皆、神殿の外で、祭司が神殿内で香を焚き祈っている間、祈っていました。香の壇は、至聖所と聖所との間を隔てる幕を挟んで、祭壇の真後ろの位置にあった金の香壇でした。
二万人の祭司がいましたから、くじで香を焚く務めが出来るのは、一生に一度の機会しかありません。その一生でたった一回の機会に、不思議なことが、祭司ザカリアの身に起こったのでした。私たちの一生をも、ご摂理によって統べ治めたもう神様は、絶妙のタイミングによって、私たちに一人一人に介入して下さる、同じ神様です。
転
祭司ザカリアが、主の聖所に入って香を焚いていると、主の天使が香壇の右に立っていました。祭司ザカリアは、それを見て不安になり、恐怖の念に襲われました。すると天使は言いました。13 節~17 節「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。
その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」この天使は19 節では、カブリエルだと言っています。このカブリエルは、後に乙女マリアの所にも遣われさ、受胎告知をします。天使は年をとらないのではないかと思うころがあります。なぜなら天使ガブリエルが、初めて聖書の中に登場してくるのは、旧約時代のダニエルに対して遣われたとあるからです。ダニエルは、祭司ザカリアに現れた年代からしたら、5 百年位前です。ダニエル書8 章15 節16 節「わたしダニエルは、この幻を見ながら、意味を知りたいと願っていた。その時、見よ、わたしに向かって勇士のような姿が現れた。すると、ウライ川から人の声がしてこう言った。『ガブリエル、幻をこの人に説明せよ。』」同じダニエル書9 章21 節にもこうあります。「こうして訴え祈っていると、先の幻で見た者、すなわちガブリエルが飛んで来て近づき、わたしに触れた。それは夕べの献げ物のころのことであった。」
現在の私たちに対して、神様の言葉を伝えるのは、天使が遣わされることはあまりないのではないでしょうか。それは聖書66 巻が完成したことと、ご聖霊の照明の光によって語って下さる時代となっているからです。
祭司ザカリアと、妻エリサベト夫妻には、この時まで子どもが与えられず、もう老人となっていました。
ユダヤの当時の文化に過ぎませんが、子どもがないことは、神の祝福が与えられていない為とみなされていました。ザカリアとエリサベトは、子どもが与えられるように祈り続けてきたと思います。そしてもう肉体的にはもう絶望的な時に、天使カブリエルを通して、男の子の誕生が告げられました。この年老いた夫婦には、不可能と思えることが語られたのです。それはこの後、乙女マリアに対して、ご聖霊によって救い主が、胎に宿るという奇跡が興ることの予表となっています。創造主なる神様は、無から有を生じさせる神様です。クリスマスは、まさに無から有が生じる奇跡を見る時でもあります。
この祭司の夫婦に委ねられる子は「ヨハネ」と名付けるように言われます。ヨハネという名前の意味は「主は慈しみ深い」です。このヨハネは、主の御前に偉大な人になり、ふどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいる時からご聖霊に満たされていました。このぶどう酒や強い酒を飲まないことは、古代イスラエルに登場したナジル人たちを連想されます。このヨハネは、ナジル人であったと考える学者もいます。
このヨハネの最大の使命は、後に来られるメシア・救い主の前に、整えられた民を、主のために用意することでした。このヨハネは、大きくなりますと、エルサレムと死海の間にあるユダの荒れ野で生活していたと思われます。ヨハネは、荒れ野にいることによって、経済的にも政治的にも、権力に対抗する使命を行うことができるようにしていました。加えて、偽善的な宗教指導者からも離れる事が出来ました。
祭司ザカリアのことに戻りますが、最初ザカリアは、天使の言葉が信じられずにいました。18 節「そこで、ザカリアは天使に言った。『何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。』
すると天使は答えました。『わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。』」
このザカリアに起きた出来事から、いくつかのことを受け留めることが出来ます。第一に、神様は、用いることができるなら、どんな人を通してでも、偉大なことをなしてくださるという希望を持つことが出来るということです。
第二に、私たちは、神様が御自身の方法で、神様の時に、働かれるのを待たなければならないということです。そして第三に、私たちは、主の約束を、素直に信じて待つことが大切であるということです。月が満ちて、妻エリサベトは、天使カブリエルが告げた通り、男の子を産み、名をヨハネと書くと、祭司ザカリアは、口が開き、舌がほどけ、神様を賛美し始めました。ザカリアは、神様を賛美し、彼の息子であるヨハネが、なすであろう幻を見、預言しました。ザカリアの讃歌は、詩編によく見られる祝福の様式で書かれています。
たとえば、詩編41 編14 節「主をたたえよ、イスラエルの神を、世々とこしえに。アーメン、アーメン。」106 編48 節「イスラエルの神、主をたたえよ、世々とこしえに。民は皆、アーメンと答えよ。ハレルヤ。」ヨハネによる福音書1 章69 節には「我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」とあります。ザカリアは、神様がこの地へ来ようとしていることを、誰よりも早く告げられたのではないでしょうか。
70 節「昔から聖なる預言者たちの口を通して、語られたとおりに。」その代表的な預言は、イザヤ書7 章14 節「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」
イザヤ書9 章5節6 節「ひとりのみどりごが、わたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。』」そしてもう一つミカ書5 章1 節「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」祭司ザカリアは、私たちが疑いつつも、従いたいと思っているときの、信仰的な英雄と言われています。
そしてザカリアは、神様が、エジプトで苦しむ民を顧みた憐れみの神様であり、出エジプトさせた救いの歴史を回顧しています。そして終末的にダビデの子による、新しい出エジプトが、まさに始まろうとしていることを預言して歌っています。
そして、神の民は、異邦人を含む、霊的イスラエルへと深められてゆきます。イザヤ書9 章1 節「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」この讃歌の結びの言葉は、平和です。神の御子が来られると、神と人、人と人との間に平和が造られてゆきます。そして罪と死と悪魔、虚無と空しさと無目的から、贖い、解放して救い出してくださいます。
結
旧約の預言者たちは、神様に愛されている民に対して、罪から離れて、神様に立ち返るように、常に訴えました。かつての初臨のキリストを待ち望んだ民に対して、私たちは再臨のキリストを待ち望んでいます。しかし罪から離れて、神様に立ち返ることは同じです。
神様に愛されている恵みに応えて、神の民が見失っていた真の救いの知識を、悔い改めの必要と共に、証ししてゆきませんか。
最後に、ユ・ジンソという方の「あなたのモードはいつも同じですか」という内容を受け留めます。「信仰者にとって、最もよくないこと、霊的にずる賢いとまで言えることは、『モード(mode)をいつくも作ることです。言い換えれば、状況や環境に応じて、それぞれ違う霊的な姿で生きることです。
教会での『モード』、職場での『モード』、家での『モード』がすべて違っていて、それぞれの状況に応じて、違う霊的な姿で生きてゆくのです。そのような生き方に葛藤がないのであれば、それは最も狡猾な姿であると言えます。葛藤すらしないということは、もはや限界に達したということであり、希望がないということです。
神様は、そのような姿を、お許しになりません。主が私たちのうちにおられるということは、すなわち『あなたといつもともにいる』という意味であり、どんな状況にあっても、一つの霊的な『モード』であるべきだということです。神様のために、神様の栄光のために生きることこそ、神様中心の人生を生きることです。
神様は、私たちの人生における、すべての原則が、神様ののみこころ基づいたものであることを望んでおられます。また、私たちの人生の、すべてのエネルギー、慰めと励まし、意欲、喜び、感謝、チャレンジ、決断のようなものを、神様ご自分から受け取ることを望んでおられます。そうするとき、私たちの人生は、神様中心のものになります。」
主に愛されている皆さん、御聖霊の助けの中で、先ず私たち自身が悔い改め、そして神様にある霊的なモードで、どの生活の領域でも、生活を通して、生き方を通して、イエス様を証し出来ますように。そして機会に応じて、キリストの事を伝え、アドベントとクリスマスの集いにも、隣人をお誘いできますように。
お祈り致します。

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