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2022.1.16ヨハネによる福音書 2 章33 節~3 章15 節「水と霊によって新たに生まれる」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2022年1月16日
  • 読了時間: 9分

牧師 松矢龍造


天国や天の御国のことを、神の国とも言います。ユダヤ人は、主なる神様の御名を、みだりに唱えてはならないという律法から、主なる神様の名を直接使うことをさけます。ですから天国あるいは天の御国と表現することが多いです。

しかしヨハネによる福音書は、ユダヤ人だけでなく、全人類を意識していますから、神の国という言葉を使っています。それでは神の国とは、どんなところのことでしょうか。神の国とは、創造主なる神様が支配されているところという意味ですから、ある特定の場所のことではありません。

人々が隣人に仕え、キリストの福音を宣べ伝え、神様の御心が行われる時、そこに神の国は存在します。神様の支配がなされ、受け入れられているところだから、このようなことが起きえているからです。神様の支配・すなわち神の国は天において、またイエス様を信じる心の中に、そして神の国が受け入れられている人々の間に存在します。

ユダヤ民族は、アブラハムの子孫であるので、自分たちが特別に神様に選ばれた民族であり、神の国の一員だと勝って思っていました。また熱心党という人々は、武力を持って立ち上がる時、神の国を招来し得ると考えていました。そしてファリサイ派は、律法の遵守って神の国がもたらされると考えていました。

イエス様は、過ぎ越しの間、エルサレムにおられましたが、そのなさったしるしや奇跡よっ

て、多くの人々が、イエス様の名を信じました。しかしイエス様ご自身は、彼らの表面的で、誤った神の国の見方や、誤ったメシア観の故に、信用されませんでした。そして不十分な信仰を言い表した人々を代表すかのように、ニコデモという人が登場してきます。そしてイエス様とニコデモとの対話が、この福音書が書かれた当時の、キリスト教とユダヤ教の対話と二重写しになっています。

ニコデモという人物は、ユダヤ70 人議会であるサンベトリンの議員の一人であり、ユダヤ教の教師でもありました。またファリサイ派に属する人であり、政治的、軍事的メシアを待ち望んでいた一人でした。

彼は、昼ではなく、夜にイエス様のもとに来ました。ファリサイ派の人々に対しても、サンヘドリンの議員たち対しても、ユダヤ当局は直接イエス様のところに行くことを禁じていました。ですから人目を忍んで夜に尋ねてきたのです。ニコデモは使いの者を送ることも出来ましたが、自ら直接イエス様のもとに来ました。彼は、事実とうわさを区別するために、自分でイエス様を調べたかったのです。ここに未信者の方々がおられるなら、皆さんもニコデモのように、自分で直接、イエス様を調べなければ、本当の真実なイエス様に出会うことはできないでしょう。

イエス様とニコデモの最初のやり取りが2 節3 節です。「『ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。』イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」

人間の肉の力で律法を守るという、人間の努力の延長上に神の国と、永遠の命があると考えていたニコデモにとっては、まったく思いもしなかった、「新たに生まれる」という表現に、度肝を抜かれたことでしょう。

続くやり取りはこうです。4節~6 節「ニコデモは言った。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。』イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。』」

イエス様が言われた「新たに生まれる」とは、御聖霊による霊の生まれ変わりのことでした。その働きを、水と霊によって生まれると表現したのは、水が汚れを洗い流すように、ご聖霊によって悔い改めて、罪から洗われなければ、新たに生まれることは出来ないということです。それはまた悔い改めの水のバプテスマと、ご聖霊による再生というご聖霊のバプテスマによって、罪赦され、新たに霊的に再生されることでもあります。

「新たに」と訳された原文の言葉は「上から」あるいは「天から」という意味でもあります。人が新たに生まれるのは、天から、上からの力、神様からの力によって、新しく生まれ変われるというこです。続いて7節8 節「『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

ヘブライ語でもギリシア語でも、「風」と訳された言葉は、「息」あるいは「霊」とも訳されます。風は目に見えませんが、音や影響力で、その存在が分かります。同じように、ご聖霊の働きは、目に見えませんが、その影響力によって、新たに生まれたことが分かります。罪の罪責感に苦しんでいた人が、主によって罪が赦され平安を経験します。また死を恐れていた人が、死の解決が出来るようになります。そして愛のない憎しみの心が、変えられて行くことを通して、ご聖霊によって新たに生まれたことを実感してゆきます。

9節10 節「するとニコデモは、『どうして、そんなことがありえましょうか』と言った。イエスは答えて言われた。『あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。』」旧約聖書のエゼキエル書にすでに、こう書かれています。36 章25~27 節「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」

イエス様は、ニコデモに対して信仰を迫りました。11 節12 節「はっきり言っておく。わたし

たちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」

ニコデモは、この後、隠れてイエス様のもみとに来ていたことから、イエス様を弁護するために、大胆に意見を後に述べています。7 章50 節51 節「彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。『我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。』」さらにイエス様が、十字架につけられた後に、ニコデモは、アリマタヤのヨセフと共に、危険を顧みることなく、イエス様の遺体を、十字架から降ろして墓に葬ることを行いました。19 章38 節~42 節「その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。

彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、誰もまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。」

ニコデモは、この後、確かに恐れず、主イエス様を真に信じる人に変えられていったことが分かります。私たちも、信仰の深みへ、真実に信仰の深みへと、御言葉と祈りと、ご聖霊によって向かうことが重要です。

イエス様は、旧約聖書のモーセが青銅の蛇を上げた例を取り上げて、念をおされました。13 節~15 節「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

かつてイスラエルの民が、荒れ野において不信仰と不従順を重ねた罪に対して、主なる神様

は、刺されると火のように痛みが走る蛇の毒で罰せられたことがありました。モーセの執り成しの祈りに応えて、主はモーセに対して、青銅の蛇を作り、これを民の前に掲げて上げ、これを仰ぎ見る者は、癒されると言われました。

民数記21 章8節9 節「主はモーセに言われた。『あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。』モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。」

悪魔という蛇に噛まれて罪人なった私たちです。そのままでは、毒が周り死んでしまいます。旧約時代に青銅の蛇を仰いて癒されたように、主イエス様が十字架に上げられ、また復活されて天に上げられたことを、信じて仰ぐなら、私たちも罪が赦され、永遠の命が与えられます。

イエス様は、ニコデモに対して、不完全な信仰が、完全な信仰に成長することを待たれまし

た。このイエス様の愛と忍耐は、私たち一人ひとりに対しても臨んでおられます。誰でも、悔い改めて、上げられたイエス様を信じるなら、ご聖霊によって新たに霊的な生まれ変わりを与えていただけます。そして罪の赦しと永遠の命と、神様と隣人を愛する律法を守り行える力を、御聖霊の実によって与えられます。あなたもイエス様を、真実に信じませんか。

最後に、キム・グァンソンという方の「霊的不純物をろ過するフィルター」を受け留めます。

「私たちの体の栄養分は血を通して供給されますが、血の中にカスが流れてコレステロール値が高くなると、私たちの体は危険になります。そのため、血をろ過する腎臓が重要になります。腎臓には、片方に約100 万個にもなるネフロンという構造によって、血液をろ過します。そして、体に必要な物質は血液に再吸収され、残りは尿として排出されます。

そのようにして、私たちの体の内部環境は、一定に保たれるのです。腎臓が故障して、うまく働かなくなると、人工的に血をろ過しなければなりません。私たちの霊的な血にも同じことが言えます。主の言葉に世俗的な価値観が混ざると、霊的な健康に赤信号がともります。御言葉の黙想は、霊的な血をろ過するフィルターのようなものです。御言葉の前で祈りながら、自分をろ過しなければ、人工的に外部でろ過することになります。

つまり神様が、さばきの言葉と出来事によって、私たちに臨まれるしかなくなるのです。ですから、私たちは、聖書的な考えを、しっかり身に着けなければなりません。聖書的な価値以外の不純物は、ろ過して尿のように排出しましょう。そうしないなら、魂と人生は、毒素によって破壊されてしまいます。間違っていることを聖書の御言葉に従って正すとき、霊的な血はきれいになります。御言葉だけを人生の基準、考え方の基準として歩みましょう。」

神様に愛されている皆さん、神の御言葉とご聖霊よって、新たに生まれたなら、さらに聖書の価値観によって、ご聖霊にょって、魂と人生を、きれにされて日々の生活を歩んでゆきませんか。

お祈り致します。

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