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2022.1.2基調説教_ガラテヤの信徒への手紙6 章1~10 節

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2022年1月2日
  • 読了時間: 9分

「神の愛に生きる信仰の家族」

牧師 松矢龍造


新年明けましておめでとうございます。新年最初の主日礼拝は、今年の主題聖句と教会標語に基づく説教となります。これは今年の、希望が丘教会の基調説教でもあります。そして今年の教会標語は、「神の愛に生きる信仰の家族」です。以前、沖縄にあります「白い家の教会」と呼ばれている教会堂で、牧師の研修会を開催させていただいたことがあります。「白」は、キリストや復活の象徴的な色ですので、キリストの家の教会という意味となります。

この「白い家の教会」では、人々が教会に来られると「お帰りなさい」と迎え、教会から出る時には「いってらっしゃい」と言って送り出します。この教会は、キリストの家なので、「お帰りなさい」「いってらっしゃい」は、当然のこととして、語られています。そして「白い家の教会」の精神も、会堂の設備も、言葉だけでなく、実際に、キリストの家として、人々に接しておられました。

以前、オーストラリアのヒルソング教会のカンファレンスに参加した際も、同じ精神と実際の接し方に触れました。英語圏ですので、大きく「WELCOME HOME」と、庭にも、玄関にも、記されていました。言葉だけでなく、生き方です。スローガンでなく、教会生活そのものですと言われていました。帰国後、私もこの言葉と精神と生き方を、希望が丘教会としても目指したいという思いから、パワーポイントに加え、礼拝堂のスクリーンに「WELCOME HOME」と記しました。そして色々な集会で、語り始め、教会生活に、徐々に浸透することを願っています。そして五か年計画においても、神の国の文化・天国文化の浸透を、ご聖霊によって進めたいと小小会に提案して、宣教基本姿勢となりました。

今年は、五ヶ年計画の中で「交わり強調年」です。私たちの交わりが、キリストによる神の家族としての交わりに、さらに、ご聖霊によって、近づいて行く年となりますように、祈っております。

この神の家族としての交わりにおいて、大切な点を、御言葉を通して受け留めてまいりましょう。その第一は、互いに重荷を担い合うキリストの家族ということです。ローマの信徒への手紙12 章15 節で「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」とあります。またコリントの信徒への手紙一12 章26 節は「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」とあります。

先日、園長から、めぐみ幼児園でありました、ほほえましいエピソードをお聴きしました。ある年少組の園児が、教会の庭にあります遊具の一つであり、キャプテンと呼ばれている高台に登ることに挑戦しました。この年少組の子が、キャプテン登ったのはいいのですが、今度は怖くて下に降りられなくなって泣きだしてしまいました。

そのことを園長が見ていますと、年長組の子どもたちが集まってきて、ある園児たちは、同じく登っていって、このように降りるんだと見本を見せたり、下にいる子どもたちは、出来るから大丈夫と励ましたりしているのです。

年少組のこの子どもは、泣きながら、おそるおそる降り始めて、下に降りることが出来た時に、みんなが拍手して、喜びを分かち合いました。まさに泣くものとともに泣き、喜ぶ者と共に喜び、互いに重い荷を負い合う姿に、自然と見えるように、神様が育ててくださっている場面でした。このようなことが、大人である私たちの中にもキリストにあって見られて行くなら、神の家族として、信仰と希望と愛の共同体として、成長して行くことになります。

第二に、神の家族としての特徴は、互いに罪を告白し合い、祈り合います。ヤコブの手紙5 章16 節に「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」とあります。

私たちは、日々、罪を犯さない日はありません。その際に、主に癒して頂く為に、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」とあります。自分の罪を、他の人に言うことは、実に恥ずかしく、自分に対する不信感を与えてしまうのではないかという恐れがあり、なかなか言いにくい時があります。

しかしそうせずに、神様だけに告白して祈ればよいと思って、互いに罪を告白して祈り合う機会をなしですませてしまう。もちろん、ある事柄に関しては、それでもよいものが建徳的である場合もあります。しかし他の人に罪を告白しない場合は、自問自答なってしまって、神様に祈っているようで、実は自分に言って、自分で赦しを与えてしまっているのではないでしょうか。宗教改革者の一人であるマルチン・ルターが指摘しているところです。

信頼できる人に、互いに罪を告白し合い、罪の赦しの為に祈り合う。それはキリストの所に行くことであるとも加えてあります。そしてキリストにある罪の赦しの実感は、互いに罪を告白し合い、主の赦しを祈る時の方が、より与えていただけます。

ローマカトリック教会は、罪の告白をする告解制度があって、定期的に司祭のところに行き、罪を告白して祈って頂くことが制度されています。プロテスタント教会は、告解制度はありませんが、宗教改革者の一人あるジャン・カルヴァンは、定期的に罪の告白をすることの有用性を認めて、礼拝の始めに、罪の告白と、赦しの宣言を加えました。

それに加えて、互いに、あるいは時には小グループの交わりにおいて、互いに罪の告白し合い、互いにキリストの赦しを祈り合うことは、交わりの共同体として、神の家族として、さらに成熟してゆくのではないでしょうか。それはまた、神の家族として、あるがままで、そのままで、その存在を受け入れ愛し、互いに愛を持って戒め合う交わりともなってゆきます。自分をさらけ出しても、受け入れられる。そのようなキリストにある交わりが深められて行くなら、さらにキリストの家としての教会の交わりとなってゆくのではないでしょうか。

第三に、神の家族としての交わりには、十字架のもとにいる兄弟姉妹の喜怒哀楽を聴き、良きものを引き出す為にも、聴くということが大切になります。交わりの専門家であるディートリッヒ・ボンヘッファーは、次のように言われています。「十字架のもとにいる兄弟姉妹のみが、私の罪の告白を聴くことが出来る。人生の様々な体験ではなく、十字架の体験こそが、罪の告白の聴き手を造るのである。」

さらに「もしわれわれの心が貧しく、兄弟姉妹の罪の告白を聞いても、何の役にも立たないとするなら、それは心理学的知識の不足でなくて、イエス・キリストに対する愛の不足である。しかしキリスト者は、キリストの十字架に日毎に真剣に関わることによって、人間的に他者を裁こうとする気持ちや、他者を必要上に大目に見るような態度を、捨て去ることができる。」

私たちの交わりは、先ずキリストと交わり、愛と義を頂いて、裁かず、大目に見過ぎず、正しく聴く心の耳を養うことが必要となります。ヨハネの手紙一1 章3節「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」

第四に、神の家族の交わりにおいて、急進主義と妥協主義の拒絶を、キリストにあって目指します。先のボンヘッファーが、次のようにも言われていました。「急進主義は時間を憎み、妥協主義は、永遠を憎む。急進主義は、耐え忍ぶことを嫌い、妥協主義は、決断することを嫌う。急進主義は、賢さを嫌い、妥協主義は、単純さを嫌う。急進主義は、中庸を嫌い、妥協主義は、計ることのできないものを嫌う。急進主義は、現実にあるものを嫌い、妥協主義は、究極的な言葉を嫌います。」神の家族は、究極的な天の御国を望みながら、現実の生活における忠実な歩みの両方を、キリストにあって重んじてゆきます。使徒パウロは、テサロニケの信徒への手紙一で、両方の大切さを述べています。4 章11 節12 節「そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。」

そしてもう一面4章13 節14 節「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」

このような神様の家族としての歩は、一度だけでなく、たゆまず、飽きずに繰り返されることが重要です。それは繰り返すことによって、生活となり、教会の文化となってゆくからです。その為に、ご聖霊の助けと力と実が、どうしても必要となります。たとえ肉の力で一度できでも、長続きしません。むしろ燃え尽き症候群にさえ陥ってしまうかもしれません。ガラテヤ書6 章の前に、5章22~26 節にこう記されています。

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」

最後に、ハ・ヨンジヨ先生の「私たちをクリスチャンらしくするもの」を受け留めます。「車の後ろにつけた魚模様のステッカーや、首にかけた十字架のネックレス、それらが私たちをクリスチャンらしくするのではありません。

私たちが日常生活の中で、どのような言葉を発しているか、人々との関係の中で、どのように心のゆとりを見せているか、お金が最高であると考える社会の中で、どのようなお金の使い方をしているのか、快楽と平安を求める世の中で、どのように自分を律しているか、それらは世の人々が見ているし、神様も見ておられます。

私たちは、自分の行いが、キリスト教的に飾られたものではなく、御霊の実として自制されたものとなるように、生活の中で示さなければなりません。そうしてこそ、私たちは、神様が与えてくださった、クリスチャンの名にふさわしい者となることができるのです。」

神様に愛されている皆さん、この年、隣人そして、特に神様の家族に対して、御霊の実によって、善を行う歩みを行って行きませんか。主題聖句をもって閉じます。「ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」

お祈り致します。

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