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2022.1.30ヨハネによる福音書3 章22~36 節「天から来られたキリスト」

牧師 松矢龍造


かつて天から来られた救い主キリストを、世が受け入れないことを悲しんだ一人は、あの

有名な「メサイア」を作曲したヘンデルであったと言われています。ヘンデルは、聖句で言

えばイザヤ書53 章3節で「彼は軽蔑され」と言う一語に会って、いたく泣いたとあります。

これは世の人が、かくまで有難い救い主を、虐待し奉ったことを、情けなく覚えたからでし

た。

それ以前に、いたく嘆いた最初の人は、バプテスマのヨハネでした。今日の御言葉では

32 節「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない」

と言っています。

いやそれは天からキリストが来られる700 年以上も前から預言されていたことでした。イ

ザヤ書53 章3 節「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。

彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」

今日の御言葉は、バプテスマのヨハネが殉教する前に、最期に語ったキリスト証言です。

バプテスマのヨハネは、終始、人々の目を、ただイエス様に向けようとしました。ヨハネは、

自分の弟子たちをイエス様に送り出して、自分の使命が終わりに近づいたことを悟りました。

そして、しばらくイエス様と同じ時を生きました。それはもうしばらく、人々の目をイエス

様に向けるという使命があったからです。

イエス様の弟子たちが、イエス様の御名によって洗礼を授け始めた時、しばらくヨハネも、

サリム近くのアイノンという場所で、悔い改めの洗礼を授けていました。サリムの近くのア

イノンとは、おそらくヨルダン川中流の西海岸であり、そこは泉が湧く場所であったようで

す。

ユダヤ人には、神を礼拝するに、ふさわし状態になるために、体を洗うという規定があり

ました。それでヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人の間で、清めのことで論争が起こりまし

4

た。

ヨハネは、恐らく次のようなことを、この時思ったことでしょう。「なぜ私のことで議論

するのか。なぜ私を巡って徒党を組もうとするのか。私が重要なのではない。私はただ、人々

が主イエス様に注目するようにしているだけなのだ。」

ユダヤ人が、バプテスマのヨハネの弟子たちと論争したのは、イエス様一行と、ヨハネの

一行を、洗礼を巡って仲違いさせようと目論んでのことでした。ですからわざと26 節のこ

とを言って来ました。「彼らはヨハネのもとに来て言った。『ラビ、ヨルダン川の向こう側で

あなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの

人の方へ行っています。』」

彼らの意図が分かっていたヨハネは、27 節28 節でこう答えました。「天から与えられな

ければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自

分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証

ししてくれる。」

本当の伝道は、私たちではなく、キリストに従うように人々を動かすことです。神の御国

よりも、自分たちの業績を強調する人たちに用心することが必要です。

続いてヨハネは、結婚式のたとえをします。それはイスラエルの主なる神様と、その民な

るイスラエルが、結婚関係によってたとえられているように、イエス様と神の民に対する関

係も、結婚に例えられることを、言外に暗示させているのでしょう。

イザヤ書61 章5 節「若者がおとめをめとるように、あ

なたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあな

たを喜びとされる。」

ヨハネによる福音書3 章29 節「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立っ

て耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。」

ヨハネは、自分のことを、花婿なるキリストの介添え人として語っています。介添え人なる

私は、花婿なるキリストの声を聞くことは、大きな喜びであったことを告げています。

そして30 節「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」「衰える」と訳された原文の

言葉は、地位等をより低くする、あるいは、権威や評判を落として減じるという意味の言葉

です。ヨハネが、喜んで自分の重要を減じさせたことは、並外れた謙虚さを示しています。

ある方は、このヨハネの姿勢に関して「ヨハネの生涯は、この時を持って

その最高潮に達したのである」と言われています。「あの方は栄え、わたしは衰えなければ

ならない。」

イエス様は、ヨハネを高く評価して、自らの限界を知った偉大な先駆者ヨハネを尊敬して、

「女から生まれた中で、最大のものであると言われました。」マタイによる福音書11 章11

節「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現

れなかった。」

ある方が次ように表現していました。「神様の御前に、最も大いなる聖徒は、謙遜をその

身にまとえる者である。謙遜は、いつでも尊いこと・尊貴に先立つものである。」妬みなき

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人、ヨハネ。イエス様に、すべての注目が集まっていることで、ヨハネは満足しました。こ

のバプテスマのヨハネの信仰姿勢は、謙遜の霊の賜物を頂くことによります。私たちにも、

このご聖霊の賜物に預かれますように。

続く31 節~36 節は、バプテスマのヨハネの証言の続きなのか、それともこの福音書の著

者として用いられた使徒ヨハネの言葉なのか、境目がはっきりしません。しかしどちらにし

ても真理の言葉です。31 節「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から

出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上にお

られる。」

イエス様は、天におられたので、天で見られたこと、聞いたことを証しされるのは当然で

す。しかし天から来られたキリストの言葉を、世の多くは、その証しを受け入れないのです。

33 節34 節「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。神

がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからで

ある。」イエス様には、ご聖霊の賜物が限りなく与えられました。これによって、無限の愛

と、神様の知恵と、神様のお心そのものが、ご聖霊によって与えられました。

35 節36 節「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永

遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りが

その上にとどまる。」

神様の怒りが、その上にとどまることなく、永遠の命が与えられるのは、御子を信じるこ

とのみによります。律法を守れば、黄金律を実践するなら、教会に行くなら、自分の最善を

尽くしたなら、自分で天国の道を切り開くなら、救われるとは、一切書かれていません。た

だ、神の御子イエス様を信じることのみです。いまあげた要素は、救われた結果なら、良い

ものですが、救われる条件では一切ありません。

そしてキリストの福音を聴いた者たちには、決断の迫りがあります。選択を延ばすことは、

キリストに従わないことでもあります。そして決断をしないことは、致命的な決断です。旧

約時代からも、決断を人類は、迫られてきました。申命記30 章15~20 節「見よ、わたしは

今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、

主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増

える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。

もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、わ

たしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って

行って得る土地で、長く生きることはない。わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証

人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたも

あなたの子孫も命を得るようにし、

あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命

であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓

われた土地に住むことができる。」

さらにヨシュア記24 章14 節15 節「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実を

もって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去っ

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て、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたち

の先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々

でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主

に仕えます。」

主イエス様は、私たち人類への最高の神様の啓示です。また主イエス・キリストは、神の

御子であり、メシア・救い主であり、始めから存在して、永遠に生き続けるお方です。そし

てイエス様は、永遠にご自身と共に生きるように、私たち一人ひとりを招いておられます。

私たちは、天から来られたキリストをいつも注目して、私たちではなく、人々がキリスト

を注目できるように、互いに愛し合うことが大切です。最期に、キム・ジチョルという方の

「レンズの法則」を受け留めます。「ジョン・マックスウェルの『信頼の法則』という著書

に、次のようなエピソードがあります。大きな街に着いた旅人が、道端に腰を降ろしている

老人に、『この街の人々は、どんな性格ですか』と尋ねました。

するとこの老人は、『ここに来る前に、立ち寄った所の人々の性格はどうだったんだい?』

と聞き返してきました。旅人が『浅博な上に、クリスチャンは一人もいないし、最悪でした

よ』と答えると、老人は『ここの人たちも同じさ』と言いました。

数日後、また別の旅人がその街に来て、老人に同じ質問をしました。老人は今回もまた、

旅人がそこに来る前に訪れた所の人たちは、どうだったかと尋ねました。『正直でまじめな

上に、心の広い人がたくさんいました』と旅人が答えると、老人は『ここにも良い人がたく

さんいる』と言いました。

ジョン・マックスウェルは、これを『レンズの法則』と説明しています。つまり、人によ

って、状況や相手を見る観点が違ってくるというのです。クリスチャンが用いるべきレンズ

は、『イエス・キリスト』です。私たちのうちに、イエス・キリストがおられるかどうかで、

人を尊ぶこともあれば、人を批判して陥れることもあるのです。自分が、イエス様の十字架

の血潮によって救われた尊い存在であることを知っている人は、人をぞんざいに扱ったりし

ません。私たちは、真の平和と愛の共同体を築き上げるために、いのちをかけて私たちを愛

してくださったイエス様を覚え、互いに愛し合わなければなりません。」

神様に愛されている皆さん、キリストの愛を受け入れて、信じて救いを頂きませんか。そ

して互いに愛し合いながら、天から来られたキリストのみを、指し示してゆきませんか。

お祈り致します。

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