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2022.1.9ヨハネによる福音書 2 章13~22 節

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2022年1月6日
  • 読了時間: 9分

更新日:2022年1月9日

「祈りの家なる神殿」


牧師 松矢龍造


今日の第二礼拝では、今年成人された方々の祝福を祈る時となっています。この新成人の中には、めぐみ幼児園の卒園生が多いですが、かつて旧会堂の時には、礼拝堂が平日の時は保育室になっていました。今の新会堂になりまして、二階が礼拝堂であり、一階が保育室としてスペースを分けることができるようになりました。それでも、クリスマスページェントや卒園式は、礼拝堂で行われています。そしてクリスマスページェントも卒園式も、最初の時に礼拝を捧げます。

旧会堂の場合、平日は保育室でも、日曜日の礼拝の時には、礼拝堂として講壇や椅子を置き直していました。その場所が、礼拝や祈りの家として、ふさわしい場となるように整えました。旧約時代は、祈りの家は、教会堂と呼ばす、幕屋あるいは神殿と言われていました。イザヤ書56 章6節7 節「また、主のもとに集って来た異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら、わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」

ところが、イエス様が神殿に行かれた時に、神殿での境内において、異邦人の庭から、異邦人が締め出され、羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちのいる場所になっていました。そして異邦人すなわち、ユダヤ人以外の外国人たちが、礼拝することが困難になっていても、ユダヤ教の宗教指導者たちは、気にもかけていませんでした。

神様は旧約時代から、礼拝や祈りの場所が、ユダヤ人だけでなく「すべての民の祈り家」と呼ばれることを求めておられました。私たちの教会堂は、「すべての民の祈りの家」と呼ばれるような場所となっているでしょうか。

ユダヤ人の過ぎ越し祭が近づいたので、イエス様は、エルサレムに上って行かれました。ヨハネによる福音書では、イエス様が30 歳になられて公生涯に入られてから初年度に、エルサレムにありました神殿に行かれ宮きよめをなされたことが記されています。他の福音書では、三年目に行かれて、宮きよめをなされたことが記されています。イエス様は、最初から最期まで、神殿が、礼拝と祈りの場にふさわしくなることを願っておられたことが分かります。

ユダヤ人は年に三度大きな祭りがあり、神殿に来て、礼拝を捧げ、捧げものをすることが、律法に記されていました。申命記16 章11~17 節「こうしてあなたは、あなたの神、主の御前で、すなわちあなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、息子、娘、男女の奴隷、町にいるレビ人、また、あなたのもとにいる寄留者、孤児、寡婦などと共に喜び祝いなさい。

あなたがエジプトで奴隷であったことを思い起こし、これらの掟を忠実に守りなさい。麦打ち場と酒ぶねからの収穫が済んだとき、あなたは七日間、仮庵祭を行いなさい。息子、娘、男女の奴隷、あなたの町にいるレビ人、寄留者、孤児、寡婦などと共にこの祭りを喜び祝いなさい。七日間、主の選ばれる場所であなたの神、主のために祭りを行いなさい。あなたの神、主があなたの収穫と手の業をすべて祝福される。あなたはただそれを喜び祝うのである。男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい。」

除酵祭すなわち過ぎ越し祭は、毎年行われ、イスラエルの子らが、エジプトで奴隷状態であったことから解放され、紅海を渡るといとう奇跡に預かり、荒れ野を経て、最期に約束の地であるカナンに導かれたことを記念するものでした。

イエス様は、縄で小さな鞭を作り、羊や牛をすべて、境内から追い出され、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われました。「このような物は、ここから運び出せ。わたしの父の家を、商売の家としてはならない」。

エルサレムで行われていた過ぎ越し祭には、遠くから巡礼者が大勢集まってきます。その際、犠牲の動物を連れて来るわけですが、遠方から連れて来ることが出来ない人々は神殿の近くに来て、犠牲の動物を買うことになります。犠牲の動物がないと、神殿で礼拝したり祈ったりできないので、法外の値段をした動物を買わざるを得ませんでした。

さらに神殿に捧げるお金は、ユダヤの貨幣でなければならないとされていました。それは、外貨は汚れていて、きよいユダヤの貨幣でなければならないという、偏屈な理由が当時なされているためでした。そしてその両替においても法外の為替レートによって、莫大な利益を得ていました。そしてその一部を、ユダヤ教の指導者に賄賂として貢いでいましたから、ユダヤ教の指導者たちは、見て見ぬふりをしていました。

イエス様は、この神殿の有様が、今の民の信仰的な姿として写りました。祈りと礼拝の場が、不正な利益と、商売の家として用いられている事に対して、聖なる憤りを覚えてのことでした。このところで、二つの情熱が対比されています。一つは、イエス様が、祈りの家を思う熱心さと、もう一つは、商人たちの欲望に対する情熱が対比されています。

そして弟子たちは後に「あなたの家を思う熱意が、私を食い尽くす」と預言されていたことが、成就したことを思い出しました。すでにイエス様がなされることが、旧約聖書の詩編に預言されていました。詩編69 編10 節「あなたの神殿に対する熱情が、わたしを食い尽くしているので、あなたを嘲る者の嘲りが、わたしの上にふりかかっています。」

イエス様が、神殿の宮をきよめた熱情的なことは、ユダヤ教の指導者たちが、やがて妬みからイエス様を十字架刑で殺して行くことにつながってゆくのです。イエス様が、熱心に神様と神殿のことを思うことが、人々がイエス様を十字架で殺そうとする熱情となっていきました。使徒パウロは、愛弟子テモテに対して、「誰でも敬虔に信仰深く生きれば、迫害にあう」と言われました。

人は、罪を指摘されると怒り出すのです。自分の罪が明るみに照らされると、反省したり、悔い改めたりする人と、逆に怒り出して、それを指摘する人を抹殺する人に分かれて行きます。昨年、マスクをしていないと指摘されて、指摘した人に対して暴行したり、殺したりすることが、世界各地で起きていました。18 節「ユダヤ人たちはイエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか』と言った。」ユダヤ人たちは、このように台を倒して、散らすことをするからには、どんな奇跡を持って、神様から権威を与えられたということを証明するのかと問うたのです。

するとイエス様は19 節「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と言われました。「壊す」と訳された原文の言葉は、建物と、体の両方の意味で使われる言葉です。

そして20 節21 節「それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」ここでも、「建て直す」と訳された原文のギリシア語の言葉は、「体のよみがえり」「体の復活」という両方の意味の言葉が使われています。

イエス様は、建物としての神殿をたとえにして、ご自分の体が、十字架に付けられた後に、三日で復活される奇跡のことを言われていたのです。弟子たちも、このたとえが、その時には分からなかったのですが、イエス様が、復活されたときに思い出し、聖書とイエス様の語られた言葉とを信じることが出来ました。

そして現在は、神様が宿っている場所を神殿と呼んでいます。それは建物と共に、キリストを信じて内側に、ご聖霊を宿しているキリスト者の体も、神殿と言われています。コリントの信徒への手紙一6章14~20 節「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。『二人は一体となる』と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

イエス様は、公生涯の最初と最後に、神殿の宮きよめを行われましたが、それは建物だけのことではなく、私たちの体と心の聖別をも意図されていました。私たちの体が、ご聖霊の宮とされたなら、自分の体を主に明け渡して、絶えず、きよめられていくことに心を用いることが大切です。そして私たちの内側には、私たちと霊的に共にいてくださる復活のキリストが臨在されています。ならば、主の聖なることに倣って、ご聖霊によって、聖なる心と生活と、行動となりますように。そして自分の体と人生が、神様の栄光と、神様と人への愛のために、用いられることになりますように。

最後に、キム・ナムジュンと言う方の「あわれんでくださる神様」という内容を受け留めます。「だれかが苦境にあるとき、私たちは、その人がそうなった理由を突き止めようとします。どのようにして不幸になったかを探り、責任を問い、忠告しようとします。しかし、母親はそうではありません。子どもが辛い思いをしているとき、お母さんにとって、その原因は重要ではありません。ただ子どもを、かわいそうに思い、子どもよりも、もっと苦しみます。神様は、危機の中にある子どもを、あわれんでくださいます。神様の助けは、その方の心から出るものです。私たちがより頼むべきものは、私たちにある何かではありません。神様の愛です。私たち望みは、ただ神様の豊かな愛にすがることだけにあります。

神様が私たちの祈りを聞いてくださるのは、私たちの熱心さや切実さのゆえではありません。それは、イエス・キリストの救いと贖罪のゆえです。イエス様が、私たちの罪のために十字架の苦しみにあわれたから、神様は私たちの祈りを聞いてくださるのです。試練と苦しみの中でも、神様の懐に飛び込んでください。

友達に、からかわれた子どもが、お母さんの胸に抱かれて安心するのと同じです。私たちが、自分自身の過ちによって、苦しみにあっているときでさえ、神様は私たちを見捨てることはなさいません。あわれんでくださいと願い求める子を突き放す親が、どこにいるでしょうか。神様の愛は、親の愛よりも偉大です。今日、私たちがこのように生きているのは、神様が私たちをあわれみ、顧みてくださっているからです。」

神様に愛されている皆さん、イエス様は、私たちの心と体が汚れていても、むしろその汚れた存在を、あるがままで、そのままで愛し、受け入れ、十字架で、その汚れと罪を、身代わりとして負ってくださいました。復活されたイエス様は、ご聖霊によって、ご自身を信じる者たちの内側に宿り、聖別して、ご聖霊の宮としての、良き歩みへと導かれます。この主に聴き従って人生を歩んでいきませんか。

お祈り致します。

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