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2022.10.11.9箴言 2 章 13~22 節「神様に従う人と逆らう者」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2022年11月27日
  • 読了時間: 7分

牧師 松矢龍造


神様に従う人は、まっすぐな道や、光の道を歩みます。しかし神様に逆らう者は、まっす

ぐな道を捨てて、闇の道を歩きます。今日の御言葉の冒頭は、まさにそのことを示しています。2 章 13 節「彼らはまっすぐな道を捨て去り、闇の道を歩き」。

古代世界では、夜は特に、恐ろしい時間であったので、悪や愚かさを表しています。また死は、闇と表現されていました。これに対して、正しく知恵深い人生は、太陽のように輝き、神様の御言葉は、道の光、歩みを照らす灯とされています。詩編 119 編 105 節「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」

2 章 14 節 15 節「悪を働くことを楽しみとし、悪と暴言に小躍りする者。彼らの道筋は曲がり、通う道はくねっている。」

悪を行うことでの楽しみは、一時的であり、内心は、いつも不満があります。それは、たとえて言えば、寒い夜に、なまぬるい風呂に入っているようなものです。いつまでも、なまぬるい湯では、寒さを暖めることができず、いつまでも、こうしてはいられないと思いながらも、外に飛び出しそうになりますが、また、ぬるま湯に戻ってしまう。

どの道が本当の意味で幸いな道に至るのか。それは神様の知恵に与る他ありません。エレミヤ書 6 章 16 節「主はこう言われる。『さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。』しかし、彼らは言った。『そこを歩むことをしない』と。」

箴言 2 章 16 節「また、よその女、滑らかに話す異邦の女をも、あなたは免れることができる。」よその女や、異邦の女とは、結婚していない女性、他人の妻、売春婦、異教徒の女性のことです。

17 節「若き日の伴侶を捨て、自分の神との契約を忘れた女を。」伴侶以外の異性と、性的な関係を持つことは、配偶者への裏切りです。それはまた、創造主なる神様に対する不忠実です。いわば神様との契約と、人との契約を破ることです。そのような性的な関係は、滅びにいたります。モーセの十戒の一つです。出エジプト記 20 章 14 節「姦淫してはならない。」

18 節「彼女の家は死へ落ち込んで行き、その道は死霊の国へ向かっている。」「死霊の国」とは、死後に、魂が行くとされる地下のような、暗い死者の世界のことです。それは全くの静寂で、意識も感覚もない世界とされています。詩編 88 編 12 節「墓の中であなたの慈しみが、滅びの国であなたのまことが、語られたりするでしょうか。」姦淫をなする者が行きつくのは、「死霊の国」と警告されています。

ダビデの子であるアブサロムは、父に対して謀反をなして、父親であるダビデを王宮から追い出し、父の妻たちを犯しました。その後、ダビデの部下のヨアブに追われ、アブサロムは馬に乗って逃げる途中で、木の枝に首が引っかかり、そのまま殺されてしまいました。まさに呪いの木の枝に、ぶらさがり、死して神様に裁かれ、死霊の国に向かいました。

19 節「彼女のもとに行く者はだれも戻って来ない。命の道に帰りつくことはできない。」ダビデは、連戦連勝の中で、戦場に行くことなく、エルサレムの都に留まっていました。すると屋上から、他人の妻バテシバのヌードを見て、これと姦淫をなし、バテシバの夫を戦場で殺し、子孫に悪影響を与えてしまいました。まさに姦淫をなすなら、元のところに戻ることは出来ません。

そうならない為には、どうしたらよいのでしょうか。第一に、誘惑されるものに近づかず、遠ざかることです。わざわざ危険な崖の縁を歩かず、そこから遠ざかることです。

第二に、誘惑に抵抗する力を、神様に願い求めることです。主の祈りの一つに、「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」とあります。

第三に、神様を見ることです。高慢と性的不品行は、一見、魅力的であり、抵抗することが困難な二大要素と言われています。神様の力に拠り頼むことによってのみ、それらに打ち勝つことができます。高慢は、空っぽな頭に訴えかけます。また性的な誘惑は、空っぽな心に訴えかけてきます。ですから、神様に向かい見ることで、神様の知恵で頭を満たし、神様の愛で、心を満たすことです。

第四に、自分の伴侶と充分満ちたりることです。箴言 5 章 18~20 節「あなたの水の源は祝福されよ。若いときからの妻に喜びを抱け。彼女は愛情深い雌鹿、優雅なかもしか。いつまでもその乳房によって満ち足り、常にその愛に酔うがよい。わが子よ、どうしてよその女に酔うことがあろう、異邦の女の胸を抱くことがあろう。」

第五に、キリストを見てから、異性を見るという順番が大切です。毎日、異性を見ない日は、一人で山や孤島にいなければ無理でしょう。異性を見る前に、先ずキリストを見て思う。それから異性を見るという順番です。

第六に、ご聖霊から、自制の実を頂くことです。ガラテヤの信徒への手紙 5 章 16~25 節

「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」

第七に、一度見た時は、異性に対して、魅力を感じることは、良いものです。しかし二度以降見ることは、誘惑に乗ってしまうことです。ですから、一度見てから、二度目に移る前に、その間に、祈り、神様に拠り頼んで、見ないようにして頂くことが重要となります。

箴言 2 章 20 節 21 節「こうして、あなたは善人の道を行き、神に従う人の道を守ることができよう。正しい人は地に住まいを得、無垢な人はそこに永らえる。」

21 節に「正しい人」あるいは「無垢な人」と訳された言葉は、相対的に、見て正しい人、無垢な人ということで、神様の御前に、絶対評価で、完全な人と言うことではありません。むしろ主の恵みと贖いを求めて、義と認められ、非難されることのない人です。さらに、神様に拠り頼んで、神様に信頼して、神様から正しく、公平で、完全な道へと向かう力を、絶えず求めている人のことです。

正しい人が、地を継ぐという思想は、新約聖書にも見られます。マタイによる福音書 5 章

5 節「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」あるいはペトロの手紙二

章 13 節「しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」

22 節「神に逆らう者は地から断たれ、欺く者はそこから引き抜かれる。」愚かな行動の故に、土地や財産などの祝福を失うことが示されています。神様に対する不従順や不忠実の故に、約束の地を失うことが、申命記でも警告されています。

申命記 28 章 63 節「主は、かつてあなたたちを幸いにして、人数を増やすことを喜ばれたように、今は滅ぼし絶やすことを喜ばれる。あなたたちは、あなたが入って行って得る土地から引き抜かれる。」

神様と知恵を求め、恵みと愛に満たされる人が、まっすぐな道を行き、光の道を歩む人なります。そして神様の為に奉仕し、隣人のために愛に生きる時、驚くほどの力が出るように、人間は造られているのではないでしょうか。

私たちは、常に、神様の御前に何者であり、また神様が何んと言っておられるのか、そして何の為に存在しているかを、神様の御言葉と知恵を通して、ご聖霊によって教えられ続けることが必要です。

時に、罪深い選択をしたり、間違いを犯したりする時、神様からの知恵を頂いて、その失敗から学び、主に立ち帰って、回復しなければなりません。そして悔い改めの実を結んで行く歩みをなしてゆきませんか。

お祈り致します。


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