2022.10.16ヨハネによる福音書 12 章 12~19 節「平和の君キリストに従う霊的礼拝」
- CPC K
- 2022年10月29日
- 読了時間: 8分
牧師 松矢龍造
起
ウクライナへのロシアの侵攻の中で、世界中が最も求めていることの一つは「平和」ではないでしょうか。しかも武力による平和ではなく、キリストによる愛と赦しによる平和です。ヨハネによる福音書が記された時代には、二つの救い主、二つの平和が存在しました。
二つの救い主と平和とは、ローマ皇帝による武力による平和と、キリストによる平和です。かつてラブソナタという文化伝道を日本で進めておられたハー・ヨンジョ牧師の語られた説教を思い出します。この世界には、二つの大きな連鎖が見られます。一つは憎しみの連鎖であり、もう一つは、キリストの十字架から始まる愛と赦しの連鎖です。
神の御子キリストは、平和の君として、この世に来られました。地震、災害、病、争い、戦争の中で、私たち人類は、創造主に立ち帰るように、キリストの愛と赦しに帰るように、神の御言葉に帰るように、示されているのではないでしょうか。
承
イスラエルに研修旅行に行った際に、エルサレムの東側に、黄金の門があり、しかも閉ざされているのを見ました。二千年前に、この門から、キリストはロバの子に乗られて入城されまし た。そして再臨のキリストも、この門から入られると預言されています。
オリーブ山の麓にありますゲッセマネの園から、この黄金の門、現在は開かずの門がすぐ近くに見えます。主イエス様は、十字架という杯を飲む困難さを、このゲッセマネで祈りの格闘をなし、主の御心がなりますようにと、父なる神様に従って行かれました。私たちが、このキリストの後に従うことは、単にその後を追うのではありません。キリストと共に、父なる神様に聴き従う道を行くことです。
イエス様は言われました。マルコによる福音書 8 章 34 節「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』」
転
それでは今日の御言葉である 12 章 12 節をもう一度拝読します。「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き」。イエス様が、マリアからの香油注ぎを受けた翌日です。それは現在では、棕櫚の日曜日と呼ばれる、イエス様が十字架につけられる直前の日曜日の日です。いわば、イエス様が、この世での最後の週が始まったことを示しています。
過ぎ越しの祭りに来ていた、おもにガリラヤで主イエス様の奇跡を見た人々や、ラザロのよみがえりの奇跡を見たり伝え聞いたりした大勢の群衆は、イエス様がエルサレムに来られると聞いて、イエス様のもとに集まってきました。
13 節「なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。』」
なつめやしの枝、別名は棕櫚の木の枝です。棕櫚の木の枝は、ローマ帝国の植民地下で苦しんでいたユダヤ人の群衆にとっては、政治色の強い、熱狂的な民族主義を反映して、イスラエルの王を迎えた、あり方でした。
一方、ヨハネの黙示録では、なつめやしの枝・棕櫚の木の枝は、勝利の君・再臨のキリストを迎える時に用いられると預言されています。7 章 9 節「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。
『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。』」さらに棕櫚の枝は、悲しみの後に訪れる安息と平和のしるしでした。
そしてイエス様が、2000 年前に来られた時には、結果的に、その時の群衆の意図とは別にして、主の主、平和の王として、エルサレムに入られたイエス様の勝利の入場を祝うものとなりました。
群衆が叫んだ「ホサナ」は、ヘブライ語で「願わくば、今、救い給え」という意味です。しかしこの時の大勢の群衆の思っていたメシア像は、全世界の救い主ではなく、イスラエルの王、イスラエル民族の王という意味でした。
14 節 15 節「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。『シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。』」
ローマの指導者たちは、通常、行列を作って、市内に入る時、大きな馬に乗って来ます。ところが、イエス様は、旧約聖書のゼカリヤ書 9 章 9 節の預言の通りに、ろばの子に乗って入城されました。「お乗りになった」という言葉は、原文では「着席する」という意味でもあります。神の国の王として、着座されて、エルサレムに入城されたのです。そのことは、まだ弟子たちも、群衆も分かりませんでした。
16 節「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。」
主イエス様が復活され、真理の御霊様が弟子たちに降った時、弟子たちは、イエス様が、ろばの子に乗ってエルサレムに、群衆に祝われながら入城された意味が、初めて分かりました。私たちも、自分の人生を振り返って、新たな意味を知ることがあります。過去の出来後に関しても、御言葉とご聖霊の助けを受けて、再解釈することも大切なことです。
17 節 18 節「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。」
大勢の群衆が、イエス様の後を追って行きましたが、それは奇跡を見て興味深くついてゆまきしたが、イエス様を神の御子イエス様と信じて、従ったのではありませんでした。
19 節「そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。『見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。』」
ファリサイ派の人々は、群衆の興味が一過性のものであり、本当にイエス様を神の子として、礼拝したいと思っている者の数は少数であることに気づいていませんでした。
そして自分たちの策が功を持たず、不可抗的な力の前に、自分のたちの無力さを悟らずにはいられませんでした。それであとは殺害しかないと、さらに強く思わされてゆきました。
それにしても、イエス様は、なつめやしの枝を道に敷いて、熱狂的に叫ぶ群衆が、数日後、イエス様の処刑に全く抵抗せず、中には、十字架に付けよと叫ぶ者になってしまう人もいることを、どのように思われていたでしょうか。空しい「ホサナ」、好奇心と人気だけでに基礎を置く献身は、すぐに崩れることを思っておられたのではないでしょうか。
それにしても、イエス様が入城される際に、ろばの子に乗って入城されることを、不思議に思った人たちが大勢いたでしょう。しかしその意味を知る人は、ほとんどいませんでした。しかし軍馬ではない、ろば、しかもまだ誰も乗ったことのない子ロバ。それは救い主イエス様の使命とするまことのメシアの姿を対比して際立たせるものでした。
平安、あるいは真の平和があるということは、神様が共におられる、十字架と復活の主イエス様が、共におられるという以外にはありません。ある方が言われます。「真の平和は、戦争がないことではなく、神が共におられることだ」。
結
イエス様を「ホサナ」と迎えた大勢の群衆の礼拝は、長続きせず、彼らの献身は薄っぺらなものでした。では私たちの日曜日や、平日の「ホサナ」は、どのようなものでしょうか。イエス様は、ローマの圧制から救い出して下さる王以上の存在です。
私たちも、イエス・キリストの後を、ただ追う者であってはならないです。状況に左右されて態度を変えたりせず、いつまでも最後まで、主イエス様に従って行く者となりますように。
最後に、マーヴァ・ドーンという方の「日々、私達を目覚めさせる御声」の中から「時間の奴隷にならない方法」を受け留めます。「多くのことが急速に変化していく時代を生きている私たちは、一週間のうちに 1 日を全き安息日として守ることは難しいと考えます。
しかし、私たちが、1 日の時間を、どのように用いているかを振り返ってみれば、変化する世の中で、何が重要なのか、また私たちの仕事と情熱の優先順位を、どのように決めれば、緊急なことに振り回されないですむべきかが分かるようになります。
私たちは、何かを達成するために時間を割くのではなく、人々と共に過ごす中で起こる出来事に焦点を合わせる決意が必要です。仕事の手を止めて、霊的な安息に集中すれば、神様が私たちに出合わせてくださる人々を、もっと助けることができるでしょう。時間は、私たちに与えられたプレゼントであり、私たちは、そのプレゼントを、ほかの人に与えることができるのです。
私たちの社会は、お金より人を選び、空間よりも時間を重視することは、困難です。しかし、技術的な効率を重視し、経済的に搾取する文化は、クリスチャンが追求すべき価値に反しています。ですから、私たちは、意志的に努力し、自分の意志を固めなればなりません。聖日を守って生きるなら、あとの 6 日間も、神様と同じ価値観で生きるようになります。
聖日の記憶が、私たちを強くし、共同体の親密さとキリストの愛を、ますます追い求めるようにさせてくれるのです。聖日の、神様と過ごす経験をするなら、決して時間の奴隷にはなりません。永遠の世界に触れることができれば、一週間ずっと永遠の価値観で生きることができるのです。」
神様に愛されている皆さん、私たちの捧げる礼拝が、長く永続的になる為には、ご聖霊なる神様を歓迎し、主の御声に聴き従うことです。単なる「ホサナ」でなく、今、真実に主を讃美し、「願わくば、今、救ってください。私たちを」と、祈ってゆきませんか。お祈り致します。

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