2022.10.19 箴言 1 章 20~33 節「知恵と福音の勧め」
- CPC K
- 2022年10月29日
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牧師 松矢龍造
知恵の反対は、愚かですが、愚か者とは、知能において欠陥がある者のことではありません。性質において欠陥がある者、すなわち反抗的であったり、怠惰であったり、怒り続ける者のことです。さらに言えば、愚かな者とは、高慢で、神様の教えに耳を傾けない者のことです。
これに対して、知恵に聴く者は、平安で、幸せな人生を過ごすことが出来ます。新約聖書では、知恵とは、キリストであると言われています。コリントの信徒への手紙一 1 章 24 節「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」
今日の箴言の御言葉で、「知恵」と訳された言葉は、女性名詞で、擬人化されてはいますが、直接キリストということではなく、新約聖書の福音に近い言葉ではないかと思います。
承
20 節 21 節「知恵は巷に呼ばわり、広場に声をあげる。
雑踏の街角で呼びかけ、城門の脇の通路で語りかける。」城門とは、最も人通りの激しい所です。そして当時の城門の脇では、裁判が開かれたり、町の行政上の重要な決定が下されたりしていました。ですから、この人通りの多い場所で、知恵は語られていますから、選ばれた少数者に秘儀として語られる神秘主義の知恵と対照的です。
22 節「いつまで、浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち、不遜な者は不遜であることを 好み、愚か者は知ることをいとうのか。」ここでは、知恵を拒む人のことを、三重の表現で記しています。すなわち浅はかな者、不遜な者、愚か者と呼ばれています。しかも、浅はかな者は、浅はかであることに愛着を持ち、不遜な者は、不遜を好み、愚かな者は、知ることを厭うというのです。神様の恵みと憐れみがなければ、私も浅はかさに愛着し、不遜を好み、知恵を厭うのではないではないかと思います。
転
23 節「立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ、わたしの言葉を示そう。」もし愚かな道を進むことを止め、知恵を受け入れ、創造主なる神様を恐れ敬う歩みを始めようと決心するなら、知恵の霊、ご聖霊の知恵が与えられます。ご聖霊が注がれる時、人は全ての福音を教えられます。
ヨハネによる福音書 14 章 26 節「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく、思い起こさせてくださる。」
さらにヨハネによる福音書 16 章 8 節「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」
加えてエフェソの信徒への手紙 1 章 17 節 18 節「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」
真理の御霊なるご聖霊によって、世の誤りを認め、創造主なる神様にして救い主なるキリストを知る為の知恵と啓示を受けることが出来るようになります。
24~28 節「『しかし、わたしが呼びかけても拒み、手を伸べても意に介せず、わたしの勧めをことごとくなおざりにし、懲らしめを受け入れないなら、あなたたちが災いに遭うとき、わたしは笑い、恐怖に襲われるとき、嘲笑うであろう。恐怖が嵐のように襲い、災いがつむじ風のように起こり、苦難と苦悩があなたたちを襲うとき。』そのときになって、彼らがわたしを呼んでもわたしは答えず、捜し求めても、わたしを見いだすことはできない。」
知恵を拒み続け、神様を恐れ敬わないなら、後に苦難と災難に遭い、その解決を求めても、その時には、知恵は与えられません。この神様の知恵を拒み続けるあり方は、神の知恵なるキリストによる救いを拒み続けるなら、後になっても遅いということに似ています。主なる神様を恐れ敬わず、あくまでも拒むなら、裁きと苦難と災いが来た時、間に合いません。
29~33 節「彼らは知ることをいとい、主を畏れることを選ばず、わたしの勧めに従わず、懲らしめをすべてないがしろにした。だから、自分たちの道が結んだ実を食べ、自分たちの意見に飽き足りるがよい。浅はかな者は座して死に至り、愚か者は無為の内に滅びる。わたしに聞き従う人は確かな住まいを得、災難を恐れることなく平穏に暮らす。」
神様の知恵が、悔い改めることを呼びかているのに、愚かな者たちは、知恵と福音を拒み、忠告を無視します。そして神様の知恵が与える警告と助言を拒み続け者は、その報いとして、滅びと死を受けます。
背信の罪を犯しながら、なおも、その重大さに気付かず、その最後が、死と滅びであるとも知らず、安心しているということは、痛烈な皮肉です。
そうならない為に、大切なことを取り上げます。第一に、主が近くにおられるうちに、悔い改めて、主に立ち帰り、主を恐れ敬えということです。イザヤ書 55 章 6 節「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」今は、恵みの時、救いの時です。
第二に、高慢や傲慢に気づいて、主の御前に、ご聖霊から、へりくだる霊の賜物を頂いて、謙遜になることです。イザヤ書 57 章 15 節「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」
第三に、神様に、叱って頂けるほどに、神様の近くで生活することです。愛の反対は、無関心と言われます。神様は、愛しておられるので、警告と叱責をされ、裁きと罰を地上でお与えになります。その愛の警告と叱責をないがしろにしてはなりません。その為には、神様の近くで、生活することです。
第四に、私たちの罪が、主イエス様の十字架とその途上において、霊的に嘲り、罵ったことを、忘れてはなりません。旧約聖書において、神様の知恵を嘲ることは、新約時代で言えば、キリストに対して、嘲り、罵ることに近いです。
第五に、機会のある間に、その機会をとらえて、一日も早く、主なる神様のもとに立ち帰り、神様の御旨に適う生活を、ご聖霊の力を祈り求めて、実行して行くことが大切です。
結
最後に、エイドリアン・ロジャーズという方の「神様の臨在の力」の中から「霊的な戦場」という内容を受け留めます。「人の心は、霊的に見れば、戦場のようなものです。あなたの心の要塞を奪う為に、闇の勢力が、休むことなく、攻撃してくるからです。
人の心は、なぜそんなに重要なのでしょうか。それは、人は心の中で、企てたことをするからです。すべての物事の過程は、心から始まるため、サタンは、人々の心を暗くします。霊的に暗くなった心は、霊的な真理を見分けることができません。
一人の若者が、フロリダ市のある新聞社に、自分はなぜ無神論者になったかという文章を寄稿しました。その文章が、悪意に満ちたものであることは明らかでした。『人々が、存在しない地獄から、自分たちを救ってくださいと、無存在しない神に祈ることをやめるとき、ついに、この世は、羊の群れではなく、人々で満ちるようになるだろう。』
しかし、それからしばらくして、その若者は、ご聖霊に満たされたクリスチャンから、福音を聞くことになりました。彼は救われ、暗く閉ざしていた目が開かれました。彼は、私たちの教会で洗礼を受け、この教会の信徒になりたいと言いました。『牧師先生、神様が、私の心を開いてくださる前は、本当に神などいないと信じ切っていました。今では、私が無神論を立証するための論証は、何一つ思い出せません。』
霊的な目が閉ざされている人を咎めず、その人のために祈りましょう。とりなしの祈りを通して、闇の力を縛り付け、光の力を解き放ちましょう。」
神様に愛されている皆さん、生まれながらに、私達人間は、原罪を持ち、霊的に暗く、霊的に死んでいる者たちです。しかし、ご聖霊に満たされたクリスチャンによって、私たちにも福音が届けられ、それをご聖霊によって受け入れる恵みに与る時、愚かな者から、神様の知恵を受け入れる者と変えられてゆきます。その為には、キリストが十字架上で、嘲られ、罵られ、身代わりの死を遂げてくださることが必要でした。
この神様の恵みに応えて、私たちも、霊的な目が閉ざされている人たちの為に、とりなしの祈りを捧げ、神の知恵なるキリストの福音を証しする歩みとなってゆきませんか。お祈り致します。

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