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2022.10.23ヨハネによる福音書 12 章 20~36a 節 「陰府から復活して天に上げられた全世界の救い主」

牧師 松矢龍造


今年も、あと残るところ2か月余りとなりました。一ヶ月後には、今年のアドベント・待降節に入ります。救い主がユダヤのベツレヘムに誕生するということで、一番最初に訪れた異邦人 は、東方の博士たちでした。

そしてイエス様が、生涯の終わりの時を迎えるといった 時に、今度は西方の異邦人であるギリシア人が、イエス様に会いに来ました。救い主は、ユダヤ人だけでなく、古今東西、全ての救い主であることの表われの一つです。

20 節「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。」イエス様の地上での最後は、過ぎ越しの祭りの時です。この祭りに来た西方のギリシア人とは、おそらくユダヤ教への改宗者であったでしょう。

21 節「彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』と頼んだ。」

ギリシア人が、どうして 12 人いる弟子たちのうち、フィリポの所に来たのか。それはガリラヤのベトサイダ出身とあります。ガリラヤのベトサイダには、ユダヤの中では、比較的多くの異邦人が住んでいました。加えてフィリポの名前は、ギリシア風であり、また彼はギリシア語が出来たことも理由の一つでしょう。

22 節 23 節「フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。『人の子が栄光を受ける時が来た。』」フィリポは、同じくガリラヤ出身のアンデレに話し、二人は一緒にイエス様のところに、ギリシア人が会いに来たことを伝えました。

イエス様は、ギリシア人の来訪を通して、十字架にかかる時が来たことを確信しました。すなわちイエス様は、ユダヤ人に排斥され、福音が異邦人に行く時が来たことを、他の群れである、異邦人の初穂としてのギリシア人の来訪を通して、受け留めました。ギリシア人の来訪、それはユダヤ人が、主イエス様を拒絶した後、異邦人がキリストの福音を聞き、多くの人達がキリストを信じるという事実を予表しています。

24 節「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」イエス様が、十字架上で死に、復活することで、多くの人々が、罪の赦しと、永遠の命に導かれることが、たとえられています。すなわち一粒の麦が、地に落ちて、その形が亡くなり、成長して、多くの実が結ばれることに例えられています。

一粒の麦と言うべき若い女性の例です。ひそかに信仰を持っていた旧家の娘で、香代という若い女性が、結核の病で、死も真近というので、最後の願いがかなえられました。それは土地の人から迫害されていた、草履履きの伝道者と呼ばれていた升崎外彦牧師を呼んで、病床で洗礼を受けました。

その後、病状は回復に向かいましたが、困ったのは、家の者でした。『香代がヤソになった』という、うわさが村中に知れ渡り、大問題となりました。しかし香代さんは、がんとして信仰を捨てないため、家の者は、彼女を座敷牢に閉じ込めました。そして冬のある朝、香代さんは、祈りの姿勢のまま、死んでいるのが発見されました。

その後、香代さんの遺品の中から、彼女の日記が出てきました。死の二日前までのことが綴られていました。その日記には、家の者に対する、恨みやぐちは、一言も書かれておらず、どの項も両親たちのための祈りと、神様への讃美の言葉で満ちていました。

近所の者は、それを読んで大きな感動を受けました。彼らの心は一変しました。そして一家 11人が、キリストを信じるまでに導かれました。香代さんの墓標には、このヨハネによる福音書 12章 24 節が記されています。香代さんは、大正時代の出雲地方で、豊かに実を結んだ、一粒の麦でした。

25 節 26 節「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」

自分の命を憎むとは、どういうことでしょうか。原文では、「憎む」と訳された言葉は、「他のものに比べて軽視する」あるいは「より少なく愛する」そして「選ばない」という意味でもあります。ですから、永遠の命に比べて、地上での命を軽視する。あるいは、他の人々の命の為に、自分の肉体の命を、より少なく愛する」。

そしてキリストよりも自分を選ばないということでしょう。すなわち自分にとって有利な立場や安全、楽しみなどを、主キリストの為に、人々のために捨てるということです。

26 節「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

主イエス様に仕えるということは、主イエス様を信じて、罪から離れる決心をし、神様の御言葉に献身してゆくことです。別な表現では、自分を主イエス様に明け渡して、主の御心に従うことです。

27 節「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」

恥辱の十字架によって、真の栄光が現れますが、死の時が迫ったことは、人間としてのイエス様の面では、苦難の極みとなります。しかしイエス様は、自分の十字架上での死の苦しみと死を通して、父なる神様の目的が成就することを知っておられました。

28 節「『父よ、御名の栄光を現してください。』すると、天から声が聞こえた。『わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。』」

父なる神様は、既にラザロをよみがえらせることを通して、御名の栄光を現わされました。ヨハネによる福音書 11 章 4 節「イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』」

父なる神様は、ラザロをよみがえらせた先の栄光に加えて、キリストの十字架上の死と復活を通して、栄光を現わされます。

29 節 30 節「そばにいた群衆は、これを聞いて、『雷が鳴った』と言い、ほかの者たちは『天使がこの人に話しかけたのだ』と言った。イエスは答えて言われた。『この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。』」

聖書では、雷は神の声に関連付けられています。詩編 29 編 3 節「主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。」確かに父なる神様が、御子イエス様に対して語られていることを、世の人が知る為でした。

31 節~33 節「『今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。』イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」

この世の支配者とは、ヨハネによる福音書では、サタンとも呼ばれる悪魔のことです。サタンは、神様と神の民に敵対する、この世の勢力の指導者です。主イエス様は、十字架と復活によって、サタンとこの世の破壊的な力を粉砕されます。コロサイの信徒への手紙 1 章 13 節 14 節「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」

イエス様が地上から上げられるとは、イエス様が、私たちの罪の身代わりとなって、十字架につけられて死に、陰府に降られ、そして三日後に復活されて、天に昇り、父なる神様と共におられることです。

34 節「すると、群衆は言葉を返した。『わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その【人の子】とはだれのことですか。』」

群衆は、イエス様に対する預言の一部分しか見ていませんでした。しかもそれも間違ったメシア観でした。群衆の考えるメシアとは、ダビデ王の一族が、永遠に支配するという地上的、軍事的、政治的メシアのことです。

誤解して捉えた聖句の一つは、イザヤ書 9 章5節 6 節です。「ひとりのみどりごが、わたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」

しかし受難のメシア、贖罪の為に死ぬメシアのことは、受け留めていませんでした。イザヤ書53 章 5~9 節「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかっ た。

捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。

彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。」

35 節 36 節「イエスは言われた。『光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。』光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

光なるキリストが、私たちに示されている時に、キリストを信じることが重要です。そして他の人が、私たちの行動の中に、キリストを見ることが出来るでしょうか。自分の力では、一粒の麦となって死ぬことは出来ません。御聖霊の力に与ることです。

どうか、ご聖霊によって、光なるキリストを信じ、光なるキリストのうちを歩み、キリストを輝かせることができますように。一粒の麦として、自分に死に、神様の御心と御名の栄光の為、そしてキリストの為に生きてゆきませんか。お祈り致します。

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