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2022.10.2ヨハネによる福音書 11 章 45~57 節「人間の計画を超える神様の深い意図」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2022年10月2日
  • 読了時間: 9分

牧師 松矢龍造


人間の考える計画は、創造主なる神様の深い意図比べ れば、何と小さく、誤りが含まれるものでしょうか。10 月に入りまして、今年も秋が深まってきました。季節があるのは、地球の軸が少し傾きながら自転しつつ、太陽の周りを公転しているからです。

リュ・ウンリョンという方が書かれた「自然にできるはずがない」という内容を先日読みました。「万有引力を発見したアイザック・ニュートンは、近代科学成立の最高功労者の一人として考えられています。あるとき、ニュートンは、宇宙を研究するために、太陽系の模型を精巧に作りました。

地球が太陽を中心に公転と自転をしながら回っている模型の様子を見つめていた無神論者の友人は『君はやっぱり最高の科学者だよ。こんなに精巧に太陽系の模型を作りあげるとは!』と感嘆しました。

ニュートンが『これは自然にできたんだよ』と言ったので、友人が『何を言っているんだ!自然にできるはずがないだろう』と驚いて言うと、ニートンはこう言いました。『君 は、この太陽系の模型が、だれかによって作られたと分かっていながら、どうして、あの果てしない宇宙が、自然にできたと考えたんだい?』

この世に存在する、すべてのものには、原因があります。美しい音楽は、優れた作曲家がいたことを証明し、荘厳な建物は、建築家の存在を証明しています。また、性能の良い車は、立派なエンジニアがいたことを示しています。朝起きれば、間違いなく昇る太陽の日差しを浴びながら、皆さんは、だれのことを考えますか。そのようなすべてのものが、自然に、偶然に生じたと主張するなら、その人は、創造主なる神様の美しい創造の作品を味わう資格がありません。

創造主なる神様を信じることは、被造物の義務であり特権です。有限な被造物にとっ て、創造主なる神様は、研究の対象ではなく、感嘆の対象であるはずです。神様は、議論の対象ではなく、礼拝と絶対的従順の対象なのです。」

創造主なる神様であり、救い主である神様のご計画と意図は、実に深く、人間の思いをはるかに超えています。主の聖なる御心を聖定と表現した聖徒たちの思いに深く賛同いたします。

約 2000 年前に、ユダヤ人指導者たちは、神の御子イエス様を殺す計画を企みました。しかし父なる神様の御心と、イエス様ご意志は、人間の思惑や妬み、殺意と憎悪を超えて、十字架に向かうことでした。

11 章 45 節「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」マリアの弟ラザロが、病気で死んで墓に葬られ、四日たっていたにもかかわらず、イエス様はラザロを、よみがえらせました。この奇跡を目撃したユダヤ人の多くは、イエス様を信じました。

しかし一方で、死人が、よみがえるのを目撃しても信じない人たちは、邪悪で反抗的で不信仰であるファリサイ派の所に行って告げます。46 節「しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。」

これを聴いたユダヤ人指導者たちは、サンヘドリン・ユダヤ最高法院を招集します。47 節 48 節「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろ う。』」

ラザロのよみがえりを通して、ユダヤ人の多くがイエス様を信じたことを通して、二つの恐れと不安を覚えました。一つは、多くの人々が、イエス様とその教えを信じ始める と、指導者たちの権威が失墜することへと妬みと恐れです。そしてもう一つは、イエス様が、イエス様に従う者たちを、ローマ帝国に対して蜂起させ、ローマ帝国が、イスラエルの国と神殿を破壊することになるという誤解した不安と恐れです。

すると、その年の大祭司が発言します。49 節「彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。『あなたがたは何も分かっていない。』」

ローマ人は、統治下の人々の反乱を警戒していました。それで、あるユダヤ人を、権威ある同じ務めに長く置くことを恐れて、大祭司の務めを、たびたび交替させていました。その為に、「その年の大祭司であった」と記されています。

その年の大祭司は、カイアファとありますが、彼は神殿の大祭司としてAD18 年~37 年の間在位し、神殿に仕える祭司たちを統括していました。イスラエルの宗教や政治の指導者たちの間で、絶大な力を誇っていました。

50 節 51 節「『一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。』これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。」

このカイアファの言葉は、先ずイエス様を殺そうとする人間の計画を語る一方で、大祭司の口を通して、イエス様の死が、特別な意味を持っていることを暗示しています。

また大祭司カイアファは、自分が何を語っているか、全部のことを理解していなかったとしても、イエス様の死を説明する為に、神様によって用いられていたことをも示しています。

そして自分たちの利益の為を思っての発言ですが、神様の深いご計画があることが、預言として語られることになったということです。

52 節 53 節「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」

ここには、イエス様の死が持つ救済的な意味が、ユダヤ民族を越えて、異邦人にも及ぶことが付け加えられています。創造主なる神様は、全世界の民族の祝福と救いの為に、先ずイスラエル選びました。そして全ての国の人々が、神様の新たな家族の一員になるように招かれています。

54 節「それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。」

イエス様は、エルサレムの北東 20 ㎞にありますエフライムという町に行かれました。それは、イエス様を信じず殺そうとする人々に対して、足の塵を払ったということです。マタイによる福音書 10 章 14 節 15 節「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

そしてもう一つは、イエス様の十字架の死は、過ぎ越しの祭りの時なので、その時が満ちるまで、公然と歩かず、エフライムの町で弟子たちと滞在されました。「滞在」と訳された原文の言葉は「留まる」という意味でありますが、それは住み着くのではなく、過ぎ越しの祭りの時を待たれる為に、エフライムの町に留まられたということです。

55~57 節「さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。

『どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。』祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。」

イエス様には、すでに逮捕状が出ていましたので、エルサレムで行われていた祭りには来ないであろうと、民衆は考えていたということです。過ぎ越しの祭りは、身を清める祭りです。ユダヤ人指導者たちは、自分を清めとしていた一方で、過ぎ越しの小羊なるキリスを殺害しようと企てていました。人間の心の悪を、恐ろしいほどまでに暴露しているという他ありません。

大祭司カイアファの語った預言は、後に至りて実現します。本当の神様の意図を知らずして、彼は預言しました。

しかし彼の意に反して、神様の本当の意味が、一緒に語られていました。

イエス様は、万民に代わって十字架で死なれることになりました。けれども、カイアファの言ったこととは違い、ユダヤ人たちは、かえって間もなく、ローマ人によって、けちらされました。そしてAD の 70 年に、エルサレムと神殿が、ローマ人によって破壊されます。

それはユダヤ人が、主を受け入れた為ではなく、主を拒んだ故であることを忘れてはなりません。人間の計画や企てを超える、神様の深い意図と救済のみ旨と聖定を覚えます。

しかし私たちは、神様の意図に反して計画し、語り働くのではなく、本当に神様の御前に、神様の御心に沿った善にして聖なる目的の為に、計画し、語り、行う者でありたいと願います。最後に、チョ・ウンアという方の「意味ある人生のための仕事」という内容を受け留めます。

「神学博士であるポール・スティーブンスは、聖書の中の様々な人物の人生と、彼らが果たした使命を中心に『仕事の神学』を発展させました。その中で、イエス様の公生涯のうち、どれほど多くの部分が、職場でなされ、どれほど多くのたとえが職業と関連していたかを述べています。

新約と旧約を通して、出会う多くの人は、自分の仕事や労働を通して、どれほど、神の国のために仕えたかを見せてくれています。働くことが出来ることは、大きな祝福です が、毎朝出勤し、日々のノルマをこなしてゆくうちに、いつの間にか、私たちは疲れ切っています。避けられない組織の問題の中で、どのように神の国の価値と原理に従って生きられるだろうかと、どんなに悩んでも、その答えは、なかなか見つかりません。

しかし、神様の知恵と助けを求めれば、何を妥協して、何を守るべきかを見分けて、職場生活で勝利できるということは、神様による大きな恵みです。イギリスの作家ドロシ ー・セイヤーズは、『生きるために』働かなければならないのではなく、『働くために』生きるべきだと言いました。

またロバート・クリントン博士は、『任された仕事を正しく行うことも大切だが、それよりももっと大切なのは、するべき仕事を正しく行うことだ』と言いました。仕事は、私たちの人生が、意味を持つように、神様が与えてくださったギフトだからです。そのことを悟るとき、私たちの人生の中での労苦は、神様の臨在の約束によって満たされる祝福された労苦になるでしょう。」

神様に愛されている皆さん、人間の計画を超えた神様の深い意図がありますが、しかし神様の栄光と、神様と人への愛の為に、神様の御心に沿った計画や言動や仕事を、ご聖霊様の助けを祈りながら、行ってゆきませんか。

お祈り致します。

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