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2022.10.30ヨハネによる福音書 12 章 36b~50 節「世を裁くためではなく世を救うため」

牧師 松矢龍造


今年も、一か月後には、アドベント、キリストを待ち望む、待降節に入ります。約 2000 年前に、神の御子キリストが、最初に、この世に来られたのは、世を裁くためではなく、世を救う為でした。そして世の終わりにもう一度来られる時には、世を裁き、救いを完成する為に来られます。 イエス様が、最初に来られた時、世を裁く為ではなく、世を救う為に来られた神の御 子・キリストであることを示す為に、しるしと奇跡を多くなさいました。ヨハネによる福音書では、既に七つの奇跡を受け留めてきました。 一つ目は、ガリラヤのカナにおいて水を、ぶどう酒に変えられた奇跡をなさいました。二つ目に、役人の息子を癒す奇跡をなさいました。三つ目に、ベテスダの池のほとりで、足なえを癒された奇跡を行われました。四つ目に、男性だけでも 5 千人をパンと魚で養われた奇跡を起こされました。五つ目に、ガリラヤ湖で嵐を静められた奇跡をなさいまし た。六つ目に、生まれながらの盲人を癒された奇跡

を起こされ、そして七つ目に、ラザロを死者の中からよみがえらせた奇跡をなさいました。

これらのメシア・救い主としての、しるしと奇跡を行われても、イエス様を信じない人々がいました。そのことは、既に旧約聖書に預言されていました。イザヤ書 53 章 1 節 「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」 さらにイザヤ書 6 章 9 節 10 節「主は言われた。『行け、この民に言うがよい。よく聞 け、しかし理解するな、よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することな く、悔い改めていやされることのないために。』」 これは、主がご計画されたのではなく、人間が拒むことを、人の自由意志の中でなすことを許されたのであり、信じない人々がいることを、あらかじめ主は知っておられたということです。そして神様は、人間たちの選択を確認したに過ぎません。

ユダヤ人たちは、ローマ帝国を打ち破る政治的、軍事的統治者をなす王なら望みましたが、自分の罪を神様の前に認めて、悔い改めることは、望んでいませんでした。私たち も、イエス様を求めるのは、世での成功の為でしょうか。それとも悔い改めて、罪の赦しを願う為でしょうか。

42 節「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。」 ファリサイ派は、ユダヤ人の会堂の多くを管理していました。それで、ユダヤ人の指導者たちの中には、密かにイエス様を信じる者たちがいましたが、ファリサイ派によって、ユダヤ人の会堂から追放されることを恐れ、イエス様を信じたことを、公言しませんでした。ファリサイ派の指導者たちは、イエス様を信じるようになった者たちを、ユダヤ人共同体から追放すると脅していました。 43 節「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」誉れと訳された原文の言葉は、「評判」あるいは「栄誉」と言う意味を持っています。神様からの誉れ、評判、栄誉より、人からの誉れ、評判、栄誉を求めるなら、神様を信じているとはいいがたいです。 ヨハネによる福音書 5 章 44 節「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」 続いて 12 章 44 節 45 節「イエスは叫んで、こう言われた。『わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。』」イエス様を信じることは、父なる神様を信じることに等しいです。 46 節 47 節「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」神の御子イエス様を信じる者は、罪が赦され、復活し、永遠の命を得ます。 48 節「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」 キリストの恵みによる救いを伝える、福音の言葉は、今は救いの言葉ですが、世の終末においては、信じない者への裁きとなります。終わりの日の裁きとは、神様が全ての人を裁かれる、最後の審判のことです。あくまでもキリストの福音を拒み続けるなら、最後の審判において、地獄行きとされます。 49 節 50 節「なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」 イエス様こそ、旧約聖書で預言されていた、預言者であり、神の言です。申命記 18 章 18 節 19 節「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。」 今日の御言葉には、イエス様のしるしと奇跡、そしてその教えに対して、どのように反応したか。三者に分かれています。一つは、心が鈍いという不信仰者たちです。その代表は、ファリサイの指導者たちです。二つ目に、臆病者の信仰者たちです。その代表は、ユダヤ人の指導者の中で、密かにイエス様を信じると言いながら、ファリサイ派の人々を恐れて、公に言い表さなかった人たちです。 そして三つ目は、ユダヤ人の指導者たちの中で、ファリサイ派の弾圧の中でも、耐え て、公に信仰を言い表した、ニコデモや、アリマタヤのヨセフがいたことが後に分かります。 この三つ目の人々に倣うとしたら、少なくても三つのことがあります。一つは、最後まで、忠実な証人であり続けるということです。二つ目に、他の人々に、一時的に承認されることよりも、神様に永遠に受け入れられることを、もっと心にかけるべきであるということです。そして三つ目に、心が鈍く不信仰な人々に対しても、臆病者の信仰者に対しても、手を差し伸べる責任があります。しかしキリストの福音を証ししたなら、後はどのように決心するかについての責任は、受けた側自身の責任となります。 エゼキエル書 3 章 18 節 19 節「わたしが悪人に向かって、『お前は必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。 しかし、あなたが悪人に警告したのに、悪人が自分の悪と悪の道から立ち帰らなかった場合には、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」

最後に、イ・グクチンという方の「人格と人格が出会うとき」という内容を受け留めます。「普段から熱心に伝道していた信徒の方が、伝道用トラクトを手に、うれしそうに、次のように話してくださいました。 ある人に長い間、一生懸命、福音を伝えてきましたが、どんなに勧めても、福音を受け入れなかったそうです。そこで、今回は、私たちの教会で作った伝道用トラクト『今日、私たちに本当に必要なものは何だろうか』を手渡したところ、それを読んだ彼は、これまで固く閉ざしていた心を、開いてくれたそうです。 その話を聞いて、私も喜びを隠せませんでした。一人の人が、イエス・キリストを受け入れることは、神様の主権的な御業ですが、神様は、私たちの努力を尊く思ってくださいます。それで、私たちの労苦が積み重なったとき、実を結ばせてくださることもありま す。 私は、そのトラクトが伝道対象者の心を動かす決定的なきっかけとなったのではなく、伝道した信徒の方が、何度も愛を示し、イエス・キリストを紹介してきたからこそ、今回トラクトを読んで心を開いてくれたのだと信じます。 人格的な出会いには、大きな力があります。豆もやしを育てるとき、容器に水をやると、水はそのまま下に流れ落ちてしまうので、水をやっても、無意味なように見えます。ところが、豆もやしは、その水によって育つのです。

それと同様に、伝道対象者の心を 0.1%でも動かすために何度も会い、愛をもって福音を伝えることを重ねていけば、いつかは、その人の心が動かされて、主に立ち返ることでしょう。福音の為に、全ての労苦は、決して無駄にはなりません。」

コヘレトの言葉 11 章 1 節「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。」

神様に愛されている皆さん、人からの誉れよりも、神様から誉れの方が重要です。一時的なことより、永遠に神様に受け入れられることの方が大切です。神の言葉なるキリストを信じて、御聖霊の力によって、忠実な証人であり続けませんか。

そして隣人への愛と福音が、いつか神様の時に、実を結ぶ日を、待ち望んでいきませんか。お祈り致します。

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