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2022.10.5箴言 1 章 1~7 節「主を恐れ敬うことは知恵の初め」

牧師 松矢龍造


今日の希望の祈祷会から、箴言の連続講解説教となります。箴言が導かれた理由の一つは、今まで連続講解説教で箴言が語られてこなかったということです。さらに最近、リーダー訓練や教会形成において、人間学が注目されています。聖書の中で、人間学を最も扱っている書簡は、知恵文学の一つ箴言です。 人間学というと日本では、松下政経塾、稲盛政経塾、アメリカではカーネギーなどが思い出されます。しかし主と御言葉に基づく人間学と言えば、旧約聖書の知恵文学、そしてその一つ箴言と言えます。 教会の規模が 200 名以上の牧師たちのフォーラムに参加させて頂く機会がありますと、参加された牧師たちは、皆個性的な方々ですが、共通している要素は、人間学に長け、人間力を感じるということです。それが、教会共同体をまとめたり、導いたりする上で、重要な鍵の一つであるように思えました。ユダヤでは、指導者を養成するいわば、帝王学の一つは箴言を学ぶことだと言われています。 箴言は、聖書においては、ヨブ記、詩篇、コヘレト、雅歌と共に、知恵文学の一つとされています。作者は、ほとんどの部分を、ソロモンが主に用いられて記しています。冒頭の 1 章 1 節に「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言」と始まっています。列王記上 5 章 12 節には「彼の語った格言は三千、歌は千五首に達した」とあります。 ソロモンは、知恵に従って行動するように父であるダビデ王より言われています。列王記上 2 章6 節「それゆえ、あなたは知恵に従って行動せよ」。ソロモンは、夢の中で、主から何を第一に求めるかと問われ、民を治める為に知恵を求めました。 列王記上 3 章 5~14 節「その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、『何事でも願うがよい。あなたに与えよう』と言われた。ソロモンは答えた。『あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。 しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。』 主はソロモンのこの願いをお喜びになった。神はこう言われた。『あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。

わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。』」 加えてアグルとレムエルが後半部分のいくつかを書いています。編纂されたのは、ヒゼキヤ王の時代だと見られています。箴言 25 章 1 節「これらもまた、ソロモンの箴言である。ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が筆写した。」 箴言という言葉は、肉体のツボに鍼をさして肉体を改善するように、魂や生活への改善の為に、格言、注意、忠告を鍼のように与えるものであるということです。また、箴言の原語は、支配する、あるいは、治めるという意味で、自分自身と共同体を治める知恵と知識を指すということでもあります。そして原文の意味では「たとえ」あるいは「あざけり」という意味でもあります。私たちの人生と生活を治めるための思慮深い助言を与えるものでもあります。 古代中近東の文化の中で、バビロンやエジプトにおいても、知恵と題されるものが早くから存在していると言われています。王や祭司や学者たちが、自分の経験によって生み出された格言やことわざ、あるいは自然観察から得た知恵によって形成されています。そして王の後継者や王宮に仕える者たちを教育するために生み出されたと考えられています。 しかし箴言は、知恵を創造主なる神様からの賜物としています。箴言 8 章 22~25 節「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。わたしは生み出されていた。深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが、わたしは生み出されていた。」 知恵は、創造主なる神様から来るものであり、初めから神様と共にありました。ですから、箴言の中心聖句は 1 章の 7 節です。「主を畏れることは知恵の初め。」さらに言えば、箴言は、神様の性質と働き、また神様からの祝福に焦点を当てています。そして、どのように神様と近しい関係で生きていくことができるかを教えている点で、世の格言と違っています。 詩編が祈りと献身の人生のための書であるのに対して、箴言は、日常生活の為の書です。その対象は、王や指導者だけでなく、若い人、一般民衆も含めて、全ての人に対してです。 そのおもな内容は、若さと訓戒、家庭生活、自制と誘惑への抵抗、仕事関係、言葉と舌、神様を知ること、結婚、真理への探究、富と貧困、不貞などです。 箴言は、ただ読むだけでなく、ご聖霊の力を頂いて、実行することが、最も大切なことです。非常にやっかいな人は、知ったかぶりで、すべてのことにおいて独断的な意見を待ち、新しいものに閉鎖的であり、訓戒に憤慨し、学ぶことを拒絶する人です。 ですから、主の訓戒を受け入れる、砕かれた柔らかい心が必要です。人間は、いかに素晴らしい教えの言葉を聞いても、信仰による理解力がなければ、豚に真珠、宝の持ち腐れとなります。 箴言に、論理的一貫性を求めることは困難です。格言や警告を集めて、適宜に配列をしています。ですから、各章ごとに主題を決定することは無理です。文学様式として、もちいられているのは、詩や、短いたとえ話し、要領得た短い問い、平行法です。また文学技法は、対照法、比喩、擬人法などです。 たとえば、一つは、二行からなる対句が多く見出されます。10 章 1 節「知恵ある子は父を喜ばせ、愚かな子は、母の恥となる。」 また一行目の意味を、二行目が補足して十分な意味となるものもあります。たとえば、16 章 16節「知恵を得ることは、黄金を得るよりは、はるかにまさる。悟りを得ることは、銀を得るよりも望ましい。」 さらに、最初に3つと言っておいて、そのすぐ後に、いや4つあるという形式が何度も出てきます。それは言わんとしている内容に注目させるための修辞的方法の一つです。そして 31 章などは、ヘブライ語のアルファベット順の頭文字による展開となっているものもあります。 箴言が記された目的は、1 章 2~6 節に先ず記されています。「これは知恵と諭しをわきまえ、分別ある言葉を理解するため。諭しを受け入れて、正義と裁きと公平に目覚めるため。未熟な者に熟慮を教え、若者に知識と慎重さを与えるため。これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え、聡明な人も指導力を増すであろう。また、格言、寓話、賢人らの言葉と謎を理解するため。」 箴言は、簡単に理解できるものではなく、それを読んだ者が、よく考えなければ、意味を正しく理解出来ないものです。それ故に、私たちも、注意して、その真意を探るように努力しなければなりません。 1 章 7 節「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」ここで、無知な者とは、知能指数の低い者という意味ではありません。主を畏れない者のことです。畏れると訳されたヘブライ語の言葉は、恐怖という意味での恐れが 60~70%で、敬うということば 30~40%である言葉が使われています。ですから、恐れ敬うと訳している聖書もあります。 主を恐れ敬うことは、あらゆる人生の出発点であり、基礎であり、全知識体系の方向性でもあります。そして世や人を恐れるのではなく、魂と肉体の両方を滅ぼすことが、お出来になる神様のみを、恐れ敬うことが大切です。恐れる存在は、私たちが失敗から免れる為にも、必要な存在です。全てを知っておられる、主のみを恐れ敬うことが重要です。 真の知恵と知識は、創造主なる神様を恐れ敬い、従うことを通して得られます。そして人間は、苦難と試練と失敗を通して学び、人と御言葉と御聖霊の助けが必要です。 人間は、生まれながらに原罪を持って生まれてきます。ですから、私達人間は、創造主にして救い主なる神様による、霊的訓練を必要としています。 そして正義とは、神様の属性の一つであり、また社会倫理としての正しさのことでもあります。神様と人との愛に生きる者として、どうしても必要なことです。教育の基本は、神を畏れ、神様に服従することを教えることです。神無き知育は、人を悪魔にします。 申命記 6 章 4~9 節「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」 箴言は、神学を教えるようには意図されていませんが、その助言に従って歩む者は、神様と近く歩みます。知識は、事実を知ることですが、知恵は、そのような事実を人生に適応することです。真理の御霊様によって、信仰を通して救いを頂き、主の愛に感謝しつつ、ご聖霊によって、箴言の御言葉と共に、聖化されて行きませんか。 お祈り致します。


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