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2022.10.9ヨハネによる福音書 12 章 1~11 節「葬りの日のために」

(召天者記念礼拝)


牧師 松矢龍造


今日の第二礼拝は、今年の召天者記念礼拝です。天に召された方々の葬儀礼拝後、それぞれの墓所に納骨した日々を思い起こします。墓所は、故人の生前を忍び、その良き感化を思い起こす場所です。またキリストにありて、墓所は永遠の御国に至る門であることを覚える場所です。そして、墓所は、自らの死の時を覚えて、自らの人生を正しく数える場所です。 これらのことは、召天者記念礼拝で覚える内容でもあります。皆さんが、教会の礼拝堂で、召された方々を覚えることは、キリストの十字架による救いと、キリストの復活による永遠の命 を、特に覚えて頂きたいのです。そして加えて、これらを自らのものとすることを大切にして頂きたいのです。 現在、日曜日毎に、教会ではヨハネによる福音書を連続で読み続けています。不思議に、今日の御言葉は、キリストの葬りの日の為に用意する内容の所です。召天者記念礼拝を迎えた主日 に、ふさわしい箇所となっています。 12 章 1 節をもう一度。「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。」 過ぎ越しの祭りの時に、神の御子イエス様は、私たちの罪の身代わりとして十字架につけられることになっていました。その六日前のことです。イエス様は、死者の中から、よみがえらされたラザロの家のあるベタニアに行かれました。 イエス様が、そのおいたちにおいてナザレの家庭で過ごされた他には、一番ラザロとマルタとマリアの兄弟が住む彼らの家庭を親しみ、しばしば好んで滞在されました。次週の金曜日に、十字架につけられる約一週間前に、お別れの挨拶に来たとも言えます。皆さんだったら、天に召される最後の時に、どんなことを、親しい人々に語られるでしょうか。 2 節「イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。」少し前に、弟のラザロを墓の中から、よみがえらせて頂いた姉のマルタは、その感謝を表したく、イエス様の為に食事を用意しました。家族の命の恩人に対して、マルタらしい感謝の表し方です。 これに対してマリアはどうしたでしょうか。3 節「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」 マリアは、おそらく壺に入っていて封印していた純粋で非常に高価なナルドの香油を、一リトラ持って来ました。一リトラとは、約 326gです。非常に高価なナルドの香油とは、インドの産地から輸入された良い香りの香油で、一リトラで三百デナリオンに相当するとあります。一デナリオンは、一日の労働者の日給に相当します。ですから 300 日分とは、約一年分の年収に相当します。 おそらく、マリアの婚礼の為に、今まで貯めて来た持参金であったかもしれません。それをイエス様に捧げたということは、キリストに差し上げるのが惜しいものは、何一つないと言っているのと同じです。 この香油を、イエス様の足に塗り、自分の髪で、イエス様の足をぬぐったとあります。マリアの謙遜と献身、信仰と愛、熱意と感謝を表しています。キリストは、私たちの為に、命を捧げられます。ですから、私たちは、財産はおろか、自分の全てを捧げても、惜しくないお方です。 するとこれに対して、愚かなことだと言う者がそこにいました。4節「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。』彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」 裏切るユダにとって、イエス様は、3 百デナリオンの価値があるように思えなかったのです。そして後に、この十分の一にあたる銀貨 30 枚で、イエス様を裏切ろうとしていました。 7節8節「イエスは言われた。『この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」 イエス様は、貧しい人々を無視してもよいと言われたのではありません。イエス様の葬りの用意をしてくれたと言われたのです。マリアは、弟ラザロを、よみがえらせて頂いたことへの感謝に加えて、イエス様のただならぬ表情に、女性の直感と信仰の故に、イエス様が、自分たち為 に、死のうとしておられることを感じ取っていたのではないでしょうか。 マリアは、詳しいことは分かりませんでした。ですが、図らずも、神様の計画の中で、イエス様の葬りの準備をし、メシアとしての油注ぎに相当することにもなりました。この行為は、表面的には、愛の浪費に見えます。しかしそこには、純粋な愛の香りが遺っています。 Оヘンリーの短編小説に、「賢者の贈り物」があります。貧しい夫婦がいて、互いの為に愛の贈り物をしようとしました。貧しい為に、夫の方は妻のきれいな髪に飾る髪飾りを買う為に、大切な父の形見である時計を売って買いました。一方、妻の方は、夫が大切にしている形見の懐中時計につける鎖を買う為に、自分の美しく長い髪を切って売りました。 そして二人が、互いへの愛の贈り物をしようとますと、夫が、妻の為に買った髪飾りをつける美しく長い髪はありません。また妻が、夫の為に買った鎖につける、懐中時計がありませんでした。一見無駄に見える買い物となりました。しかしそこには、互いの相手への深い愛だけが残りました。 マリアの香油注ぎは、イエス様の命を捧げる愛に応えた、信仰の告白です。そしてイエス様 が、油注がれたメシアであると信じることを、公に宣言したのです。さらに教会にとっては、イエス様は、霊的な花婿です。イエス様に注がれた香油は、イエス様自身だけでなく、周りにも良い香りを放ち、そしてマリア自身からも香油の香りが漂っていたでしょう。それは物理的な良い香りだけでなく、それと共に、信仰と礼拝、主への愛の香りとなっていたことでしょう。 9~11 節「イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。」 ユダヤ人の指導者である祭司長たちは、イエス様だけでなく、ラザロの命まで殺そうと謀りました。堕落の悪循環です。一説によれば、サドカイ派の祭司長たちは、復活を否定する考えを持っていましたから、ラザロを殺して、証拠隠滅を図ろうとしたことも、理由に加わったのではないかとあります。

ヨハネ福音書には、香油を注いだ人物の名がマリアと記されています。しかし他のマタイ、マルコ、ルカ福音書では、名前が記されていません。それは先の三つは、マリアの生前に書かれていたので、その名が記されたなら、ラザロ共々マルタとマリア姉妹も殺害される危険があったので、名が記されなかったのではないでしょうか。しかしヨハネによる福音書が記されたAD90 年代には、マリアたちは、老衰で天に召されていたので、殺害される危険がない為に、名が記されても大丈夫であったと考えられます。

いずれにせよ、マリアの純粋な信仰と、ユダの偽善や祭司長たちの妬みや殺意が対比されています。またユダの悲惨な最期と、マリアの永久に遺る、信頼に足りる忠実で純正で、本物の信仰の香りが対比されています。私たちの心の内面や、言動から、どんな香りが周りに放たれているのでしょうか。

現代の私たちにとって、イエス様に香油を注ぐことは、どんなことでしょうか。それは私たちに委ねられたものを、隣人の必要の為に用いることです。それは、イエス様に対してなされたことであると、イエス様が言われるからです。

マタイによる福音書 25章 40 節「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」

私たちは、どんな香りを隣人に放っているでしょうか。偽善や妬みの香りでしょうか。それとも真実な香り、キリストの香り、福音の香り、愛の香りになっているでしょうか。悔い改めと共に、ご聖霊による力を頂いて、良き香りを放つ者と変えて頂きませんか。

ガラテヤの信徒への手紙 5 章 22~25 節「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」お祈り致します。

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