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2022.11.13ヨハネによる福音書 13 章 18~30 節「光に向かうのか夜に向かうのか」

牧師 松矢龍造


ヨハネによる福音書が、メシアなるキリストを表現する特徴の一つは、キリストを光としていることです。たとえば、キリストは世の光です。さらにこの福音書の冒頭には、暗闇と対比されるようにして、光なるキリストのことが語られていました。1 章 4 節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

二週間後の 27 日から、今年のアドベント・待降節となります。キリストの到来を、光の降誕祭と呼ぶことがあります。本来キリストは、全ての人を照らす為に、神でありなが

ら、人となられました。ヨハネによる福音書 1 章 9 節「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」

ところが、世は、その光を拒み、むしろ闇に向かう人がいました。イスカリオテのユダは、まさに、その一人でした。そして私たちは、暗闇を欲するのでしょうか。それとも光に向かう人なのでしょうか。

詩人であり哲学者でもあるゲーテが「もっと光を!」と言ったといわれますが、ロシアの文豪の一人、トルストイの作品に「光りあるうち光の中を歩め」があります。ロシアのウクライナ侵攻という闇、コロナ禍と死の闇、テロや弾圧の闇など、私たちの世界には、多くの暗闇があります。その中で、本当の光なるキリストを求めることが、この希望が丘の地にも、日本にも、そして全世界の人々の中に、興りますようにと、もっと熱く祈り、ご聖霊の油注ぎを、切に祈り求めます。

それでは、今日の御言葉の 13 章 18 節「わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。」

主イエス様は、イスカリオテのユダが、裏切るのは、聖書の預言の成就であるとして、詩篇 41 編 10 節を引用されました。「わたしの信頼していた仲間、わたしのパンを食べる者が、威張ってわたしを足げにします。」この詩編において、先ず念頭に置かれている「わたしの信頼していた仲間」とは、ダビデの詩編としては、ダビデの息子アブサロムが、父親に対して、謀反を企て実行します。

そして同じように、「わたしの信頼していた仲間」がイエス様の場合は、12 弟子の一人、イスカリオテのユダが、裏切ることになるとして、親しい者の裏切りの成就としています。昨日の友は、今日の敵というのは、今でも現実に、私たちの周りで起こりかねません。

19 節「事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。」この後、イエス様が十字架につけられ、復活された時、イエス様を信じる為に、あらかじめ言われています。「わたしはある」とは、イエス様が、全能の神、旧約で現れた神、永遠者であるということです。

20 節「はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

神の御子イエス様を、天から地上に遣わされたのは、父なる神様です。イエス様を、神の御子、救い主と信じるなら、それは御子を遣わされた天の父をも、受け入れ、信じることになります。

21 節「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』」ここで「はっきり」と訳された原文の言葉は「アーメン・アーメン」と真実を意味する「アーメン」を二度重ねて、確かに、まぎれもない事実

であるということが、強調されています。

これは、裏切りの行為を予告することを通して、後に他の弟子たちの信仰を強める為でした。すなわちイエス様は、神の御子なので、予知することが出来ていたということで、神の御子に対する信仰が強められることに繋がるので、確実に預言しておられたということです。

22~25 節「弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、それはだれのことですか』と言うと、」

最後の晩餐の時に、イエス様のすぐ隣にいて、イエス様の愛されていた弟子とは、おそらく、このヨハネによる福音書を記すことに用いられた、ヨハネと考えられています。ユダヤの文化では、食卓で左側を肘にしていた場合、すぐ隣とは、右側となります。イエス様との親密な関係が、イエス様の右側の席に着いていたことに現わされています。

26 節「イエスは、『わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ』と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。」

パン切れを浸して渡すことは、ユダヤの文化では、来賓に対して、特別な好意を示すしぐさです。イエス様が、この行動をされたのは、二つの意味がありました。一つは、裏切るユダの心を知りながら、なお悔い改めの機会をお与えになるという愛の表現でした。そしてもう一つは、愛情を示す行為でありますが、イエス様が、十字架の死を、自らの意志で選んだことを示すことでした。

27 節「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と彼に言われた。」

ユダが、パン切れを受け取ったということは、イエス様の慈しみを受け取らずに、裏切りへと走ったことを物語っています。ユダは、邪悪な計画を放棄する機会を逃してしまったのです。そしてサタンに感化され、悪魔にまったく、心が占領されてしまったのです。

12 弟子の一人であり、光の実を結ぶことを期待されていながら、闇の実を結んでしまったユダです。それは、旧約時代、早くから堕落して裁かれてしまった北イスラエルに対して、光の実が期待されていたのに、闇の実を結んでしまった南ユダが、同じユダの名として、重ねられます。

28 節 29 節「座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、『祭りに必要な物を買いなさい』とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。」

ユダは、他の弟子たちからは、裏切るようには見えなかったのです。そもそも、ユダは弟子たちが、安心して、お金を預けていた人だったからです。私たちのなかにも、まさかあの人が、と言われる響きに似ています。しかしそれは、他人ことではなく、私自身が、まさかあの人が、となる可能性は、誰にでも大いにあります。

30 節「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」この時、時間的な夜という意味であると共に、霊的に暗黒の世界に落ちて行ったことを、夜という表現で表されています。そして外の闇の世界に出て行くユダと、まことの光であるイエス様の周りに集う弟子たちの姿が、対照的に示されています。

主イエス様の光と恵みに向かう人は、自分や世ではなく、光なるキリストを心に満たします。しかし夜に向かう人は、自分と世と悪魔に向かいます。最後に、チョ・ウンアという方の「恵みを受けた人の人生」の中から「自我を忘れる祝福」という内容を受け留めます。

「バプテスマのヨハネは、短くも力強く『あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません』という告白をしました。私たちにとって重要なのは、自分自身はありません。私たちが達成した何かでもありません。それは神様です。神様の栄光です。

私たちは、人々の中心になることもできず、なってもいけません。しかし実際には、私たちは、自我の問題のために、いつも悩まされています。アメリカの牧師あるティモシ ー・ケラーは、私たちは自分をより低く考えたり、より高く考えたりすべきではなく、自

分について考えることを少なくしなければならないと言い、次のようにまとめています。

『福音によって謙遜になった人は、自分を嫌悪する者でも、自分を愛する者でもありません。自分の足の指のように、関心を引くことなく、黙々と自分の仕事をする人です』。

罪は、神様を礼拝するために創造された私たちから、本来の目的を捨てさせ、自分に目を向け、自分自身を礼拝するように仕向けます。しかし福音に留まるということは、自分を忘れるだけでなく、自分を捨てるということです。ティモシー・ケラーが主張しているように、自我に過度の関心を注ぐことが、私たちの問題です。

状況次第で、非常に気分が高まるのも、逆に憂鬱になるのも、自分に過度の関心を注いでいるからです。自我を忘れることのできる人は幸いです。ご自分を捨てて、しもべの姿で来てくださった神様の、へりくだった愛を学び、そのように生きることが、真の祝福なのです。」

神様に愛されている皆さん、生まれながらに原罪をもって生まれてきた私たちは、そのままでは夜に向かう存在です。しかし光なるキリストが来られて、この方に向かうなら、キリストの福音と、ご聖霊によって、自分自身ではなく、神様の栄光と、神様の御心に聴き従うことを幸いとして、真の祝福に向かいます。あなたも、夜に向かうのではなく、絶えず、光に向かう歩みとなりませんか。お祈り致します。

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