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2022.11.16 箴言3章1~12節「主に信頼して従う者の祝福」

牧師 松矢龍造



高齢化社会を迎えている日本では、たとえ長生きしても、幸福な日々を送れない人々が多くいます。また子どもたちの中で、不登校が増えています。そして成人であっても、主を恐れ敬わず、悪に走るなら、なおさらです。

多くの人達は、何らかの不安を抱えて生きています。死の不安、失敗の不安、生活の不安、健康の不安、愛されない不安、愛せない不安、罪悪の恐れと不安などです。これらに対して、求めていることは、長寿の祝福、体が健康で生きすること、心が満足していること、人々を愛し、愛されて、良い人間関係であることです。

どのようにすれば、恐れや不安から解放され、幸いな人生に向かうことができるのでしょうか。それが、今日の箴言の言葉の中に展開されています。箴言の示している、主と御言葉に、信頼して聴き従うなら、人生の最もひどい、過ちや、罠を避けることが出来ます。


1節2節「わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し、平和が与えられるであろう。」主にある親が、愛するわが子与えた、教えと戒めを忘れず、心に納め、聴き従うなら、長寿と平和を得ると言われています。

旧約時代の祝福の多くは、長寿や土地、子ども多さや繁栄として語られることが多いです。しかしたとえ長生きしても、邪魔者にされたり、のけ者にされたりするならば、長生きしても甲斐がありません。また平和と訳された言葉は、原文ではシャロームです。社会的にも、精神的にも、調和が取れ、満たされ、豊かな状態を指します。

長生きとシャロームは、主にある親の教えや戒め、すなわちユダヤでは、主の教えと戒めに対する従順の報いであり、神様の祝福の表れと言われています。


3節「慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい。」

慈しみは、詩篇に多く使われており、創造主なる神様と、人との契約に関連した愛のことです。そして創造主なる神様の、神の民に対する変わらない愛と救いを表しています。

詩編25編10節「その契約と定めを守る人にとって、主の道はすべて、慈しみとまこと。」40編11節「恵みの御業を心に秘めておくことなく、大いなる集会であなたの真実と救いを語り、慈しみとまことを隠さずに語りました。」

さらに、まことは、主なる神様の、確実で信頼に足る存在であることを示しています。この慈しみと、まことは、両方とも、創造主なる神様の属性です。

この主の慈しみと、まことから、離れることなく、首に結び、心の板に書き記すがよいとあります。モーセの律法は、石の板に記されたことが背景となって語られています。石ではなく、心の板に刻んで、忘れないようにすることが、大切になります。申命記6章6~9節には、心に神様と人への愛の律法を受け留め、忘れないようにすることが大切であると展開されています。

「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」

クリスチャンホームの家庭では、部屋や、トイレに聖句が書かれたものが、飾られています。それは、心に留め、忘れることがないようにする為です。そして注意だけでは十分でありません。良き理解と悟りを得る為に、心に刻むことが必要です。

4節「そうすれば、神と人の目に、好意を得、成功するであろう。」慈しみとまことは、神様と人、人と人との、円満な関係の表明となります。神様の属性である、慈しみと、まことを受けて感化されてゆきますと、人間の側が、慈しみ深い人となり、まことの歩となってゆきます。恵みと慈しみ深い人は、他者が正しく扱われる為に働きます。またまことに満ちた人は、責任をもって行動します。

5節6節「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」

自分自身は、常に限界があります。ですから自分自身に頼らず、どこにいても、神様に頼ることが大切です。「主があなたの道をまっすぐにされる」とは、神様からの知恵を持って、神様の教えに、まっすぐに従うことです。

7節8節「自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になり、あなたの骨は潤されるであろう。」自分自身を知恵ある者と思わず、主を恐れ敬い、悪をさけるなら、健康になると言われています。

筋肉と訳された原文の言葉は「へその緒」、アラム語では「健康」という意味だと言われています。柔軟になるとは、癒しとも訳せるものです。つまり健康になるということです。骨は、健康と強さの座と言われ、髄は、力の源と見なされました。逆に骨が枯れ朽ち果てることは、力と命を失うことでした。主を恐れ敬い、悪を避けるなら、体が平安の中で、健康につながってゆきます。

9節10節「それぞれの収穫物の初物をささげ、豊かに持っている中からささげて主を敬え。そうすれば、主はあなたの倉に穀物を満たし、搾り場に新しい酒を溢れさせてくださる。」

初物を主にささげて主を敬うことは、私たちが持っている物は、自分の所有物では、神様のものであり、神様の資源を管理する為に、委ねられているにすぎないことを覚えさせるものです。ですから、私たちにとって、人生において、所有物よりも、神様が最優先であることを覚えさせます。そして私たちは、神様に初物をささげることを通して、貪欲に打ち勝ち、神様の特別の祝福を受けることが出来ます。

マラキ書3章8~10節「人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながら、どのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と、納物においてである。あなたたちは、甚だしく呪われる。あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。

十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと、万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために、天の窓を開き、福を限りなく注ぐであろう。」

11節12節「わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる。」

神様とその戒めに従っても、時に長寿や土地、子どもや繁栄が得られない時があります。それはどうしてなのかに、答えることが続いています。神様は、ご自身に従う者を祝福されますが、時には、訓練の為に、懲らしめを与えられることがあります。それは、刑罰ではなく、主が、その人を愛しておられるからです。

箴言には、子どもを懲らしめることが、しばしば言及されています。さらに懲らしめる父のように、神様は、愛する民を懲らしめるという考えが、律法の中にも見られます。

申命記8章5節「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。」

さらに歴史書の中にも見られます。サムエル記下7章17節「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。」

旧約聖書の中には、比較的多く、従う者への繁栄が語られることが多く、訓練や聖化の為に、懲らしめを与えることが祝福と言われることが、新約聖書に比べて少ないです。もともと懲らしめが、いやなものとのイメージがあるのは、愛のない懲らしめが、人間の罪の中で起きているからです。

これに対して、新約聖書では、旧約聖書と比べて、比較的、主のご慈愛の明確な啓示としての祝福が、試練であることが語られています。ヘブライ人への手紙12章5~7節「また、子どもたちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。

なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。』あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」

さらにヨハネの黙示録3章19節「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。」


いずれにしても、創造主なる神様の教えと戒めに対して、ご聖霊の力を求めて、聴き従うなら、咎が赦され、魂が癒しされ、神様の恵みと愛に満たされ、全ての良いもので満ち、霊的な若さが、鷲のように新にされます。

神様の愛とまことを信じる者に祝福が与えられます。ならば、神様に喜ばれ、人を幸福にする生き方を、生涯抜いてゆきましょう。子どもが、親に反抗して、親と顔をつきあわせれば、お金、メシ、ウルセイと言うなら、その親子に幸いは望めません。そうならない為にも、主にある親は、子どもたちに、主にある教えと戒めを、愛を持って浸透させることが大切です。

キリストの十字架の愛に押し出され、自分自身でなく、神様に信頼して頼り、どこにおいても、神様と親しい交わりを経験して行きませんか。そして時に、懲らしめを受けたなら、主の懲らしめをないがしろにせず、心を尽くして主に拠り頼み、主に聴き従う歩みを、ご聖霊に満たされて、歩んでいきませんか。

最後に、ライオンという会社の創設者ある小林氏のことを取り上げて閉じます。ライオンはみがきの小林富次郎氏は、その初め、宮城県で、マッチの軸木を切り出して、ひともうけしようと企てた計画が、すべて失敗し、せっかく 切り出した材木は、大洪水のために皆流されて、大損失を招きました。

さすがの小林氏も、この時ばかりは絶望し、最上川に身を投じて死んでしまおうとかと、思いつめた時、ふと自分のふところにある一枚の葉書を思い出しました。その葉書というのは、牧師である長田時行氏から、ヘブライ書に引用された箴言の一句、「わが子よ、主の諭を拒むな。・・・主は愛する者を懲らしめる」の句を、送られたものでした。

そして待てよ、もしこの言葉が真実なら、これは恵みの神が、わたしを懲らしめる愛の鞭であるかもしれない。もしそうなら、短気を起こさず、希望を神において、奮起しなければならないと、気を取り直して、立ち上がることになりました。

それから数年後、ライオンはみがきの製造に着手、その結果は、信仰的にも、物質的にも、驚くほどの、大成功を見ることになりました。

イザヤ書48章10節「見よ、わたしは火をもってお前を練るが、銀としてではない。わたしは苦しみの炉でお前を試みる。」

お祈り致します。


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