top of page
  • 執筆者の写真CPC K

2022.11.20ヨハネによる福音書13章31~35節「神様と人を愛する新しい戒め」

牧師 松矢龍造


主イエス様は、新しい掟を私たちに、お与えくださいました。それはある意味で、新しいのですが、旧約時代の掟を完成させるものでした。旧約時代において、すでに神様と隣人への愛は、掟として語られていました。

申命記6章4節5節「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

また隣人への愛は、レビ記19章18節「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはなら

ない。自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい。わたしは主である。」

それでは、イエス様が与えられた新しい掟としての愛は、何が新しいのでしょうか。イエス様が言われた「新しい」と訳された原文の言葉は、今まで経験したことのない、質的に新しいものです。これまで示されたことのないイエス様の、無条件の愛に触れて、私たちの内側に生まれる愛のことです。


加えて、旧約時代の愛は、隣人を自分のように愛することでしたが、イエス様の言われる愛は、敵の為に祈り、敵をも愛するアガペーの掟です。マタイによる福音書5章43節44節「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

イエス様が与えられた新しい愛の掟は、動機と義務内容において、新しくされていました。それは、イエス様の無条件の愛を受けて、敵をも愛し、祈るものでした。ですから、自分の生まれながらの肉の力では、実現できないものです。御聖霊の力と愛なくして、イエス様が与えられた新しい掟を行うことは出来ません。しかし与えられれば、可能となります。人には出来ませんが、神様には、お出来になられるからです。


それでは、今日の御言葉をもう一度、31節「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。

『今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。』」

イエス様を裏切るイスカリオテのユダが、最後の晩餐の席から出て、夜に向かって去って行きました。するとイエス様は、もっと自由に、また親密に、残りの弟子たちと語り始められました。それは裏切るユダがいる時よりも、張り詰めた雰囲気がなくなっていたのではないでしょうか。

神でありながら、人となられたイエス様は、父なる神様から栄光を受けました。ラザロをよみがえらせて頂くことによってです。

そして父なる神様も、御子イエス様の十字架を通して栄光をお受けになられます。それは、父なる神様は、一方では、罪を見過ごすことがお出来にならない聖にして義なる神様です。しかし同時に罪人の滅びを望まれない慈愛の神様です。それが、神の御子イエス様の十字架によって宣言され、実現されるからです。すなわち正義の神様に、罪人を義とされることがお出来になると、御子によって宣言されて、栄光を受けられるからです。

32節「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」

イエス様が成し遂げられる十字架の御業を通して、父なる神様が栄光を受けられますと、今度は、父なる神様が、十字架で死んで葬られ陰府に降られたイエス様を、三日後に復活させることを通して、御子に栄光をお与えになられます。それは、十字架の死の後、三日後すぐにお与えになるものです。

33節「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」イエス様は、復活されて天に昇られるので、地上では見ることが出来ないということです。

34節「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

これは、兄弟姉妹を、自分以上に愛し、友のために命を捨てることを教えています。テルトリアヌスという初代教会の聖徒が、初代教会のクリスチャンのことを次のように言っています。「異教徒は、しばしば驚きを持って『見よ、これらのクリスチャンは、いかに互いに愛し合い、またいかに他の人の為に、死を甘んじるものぞ』と叫んでいる」と。神様のあらゆる犠牲と愛が、最高に称揚されたのが、カルバリの十字架でした。その最高に称揚された愛に応えているのが、クリスチャンたちだったのです。

35節「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」レイントンとい聖徒が言われます。「あなたたちは、互いに愛し合わない故に、人は皆、あなたがたが、イエス様の弟子でないことを知る。」逆に、未信者の人々に、クリスチャンが、イエス様の本当の弟子であると見られのは、互いに愛し合っているかで、知られていきます。

36節「シモン・ペトロがイエスに言った。『主よ、どこへ行かれるのですか。』イエスが答えられた。『わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。』」シモン・ペトロは、生まれながらの肉の力では、十字架の主について行くことは出来ません。しかし復活の主と出合い、ご聖霊の力に与る時、イエス様の十字架の姿に倣い、殉教の死を遂げてゆきます。

37節「ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』」患難が遠く隔たったところにある時に、大言壮語する者は、患難が間近に来た時には、縮あがるのではないでしょうか。

38節「イエスは答えられた。『わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。』」

ペトロは、このすぐ後に、自分の弱さ、臆病さ、そして数時間でさえも、自分の力で主イエス様に従って行くことの出来ない、無力さを知らされます。コリントの信徒への手紙一10章12節にあります使徒パウロの警告です。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」

加えてローマの信徒への手紙12章3節「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人

一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」

ある聖徒がいいます。「すべての人は、ぺトロのように大きなことを言い、多くの人は、ペトロのように、主を否むが、ただわずかな人のみ、ペトロのごとく、すみやかに悔い改める。」

父なる神様に対する全き服従も、人間に対する全き愛も、どちらも、ペトロの力以上です。肉の力では出来ません。すなわち自分の中の情熱や意志の力では、出来るものではありません。使徒パウロのローマ書7章による告白もこうです。

7章14節15節「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは

肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」

そんな私たちの弱く、罪人である者に対して、主イエス様は、何をしてくださったでしょうか。イエス様は、今まで経験したことがないほどの愛で包んでくださいます。すなわち御自身を投げだし、自分の意志で、進んで十字架で、命を差し出し、愛と犠牲を提供して下さいます。御子を通して示された神様の愛に基礎告げられた新しい掟が、弟子たちだけでなく、私たち一人ひとりに示されています。

そして御子と御父が互いに栄光をお受けになられたように、私たちも、神様に栄光を帰すことが、新しい掟に繋がります。マーシュー・ヘンリーという聖書学者が言われます。「我らの栄光は、これを神様の栄光として捧げる時、真に我らの栄光となるのである。」

具体的には、神様の栄光を、私達人間の側が表すことは、神様が生きて働いておられることを認めて、それにふさわしい生き方をすることです。また神様の救いと贖罪の偉大さを告白することです。そして神様の素晴らしさを発見して、主をほめたたえることです。

さらにイエス様が示された愛は、具体的には、隣人に対して、自分の都合のよくない時に助け、自分があまり持っていない時に与え、自分の幸福よりも、地の人の幸福に尽力し、不平を言わずに、他の人からの苦痛に耐えることです。

使徒パウロのコリントの信徒への手紙一13章で示された愛は、まさにイエス様が私たちに示された愛です。13章4~7節「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」


ヨハネによる福音書を記す為に用いられたのは使徒ヨハネですが、このヨハネは最後の晩餐において、イエス様の御胸によりそっていました。それは、イエス様に対する全幅の愛と、信任とを捧げた態度でした。そしてイエス様から、教えと導きを頂き、感化と平安と安息を受けることでした。

私たちも、日々、祈りと御言葉とご聖霊により、イエス様の霊的な御懐に憩い、交わり、愛と教えを頂くことを大切に致しましょう。イエス様によって導かれる愛は、旧約の律法の完成です。そしてキリストが人々を愛されたように、他の人達を愛することは、革命的な新しさでした。

イエス様の犠牲と愛に基づいて、隣人を自分のように愛して行きませんか。そして私たち自身が、ご聖霊の満たされて、イエス様の愛を受けた者としての、生ける模範となれますように。

お祈り致します。


閲覧数:0回0件のコメント
bottom of page