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2022.11.2箴言2章1~12節「神様からの知恵の価値」

牧師 松矢龍造



思慮、分別、見識、一般常識、知識というのは、一度に身に着けて、成長することはできません。生涯を通して追求して、連続的に、主にある知恵に基づいて、正しい選択をする必要があります。そして道徳的な落とし穴を避けなければなりません。

かつてジョージ・ウォックスという方が、二人の友人に誘われて、料理店に連れ込まれてしまいました。これは、とんでもない所に来たと気が付くや、三人前の酒代を全部支払って、そこを飛び出し、人を避け、静かな所に行って神様に祈りました。すると神様は、御旨を示されました。

彼はその後、大いなる決心をして、それ以来、悪友との交際を断固拒絶して、神様の御旨に従い、神様を喜ばす生活に専心して、後年フレンド派の開祖となりました。それはひとえに、神様からの知恵によって、悪しき蜜より救い出され、偽りを語る者たちから、救い出すものとなりました。


2章1節「わが子よ、わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして」。知恵は、親から子へ、年配者から若者へと伝えられてゆきます。その為には、親や年配者は、自ら先ず賢者からの言葉を受けて、実践することが必要になります。

2~4節「知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら、分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら、銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すなら」。

昔は、日本でも中国でも、金よりも銀の方が尊ばれ、値打ちがあるとされていました。日本でも、銀座、あるいは銀行というように、銀に関することが、場所や取引のことで、銀の名が残されています。銀を求めるとは、宝物を求めるように捜すことですが、神様からの知恵は、銀のように宝物なのです。

5節「あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう。」知恵を探求することは、主を恐れ敬うことに至ります。ですから、主を恐れ敬うことにならない知恵は、真の知恵ではありません。本物の知恵は、必ず主を恐れ敬うことに至り、それが真の知恵です。箴言の中心聖句である1章7節「主を恐れ敬うことは知恵の初め」は、知恵の帰結でもあります。


6節「知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。」知恵は、私たちに対する神様からの賜物です。神様は、熱心に求める者に知恵を与えられ、神様に反抗する者には隠されます。イエス様も、幼子のような心の人に、知恵を与えられますが、頑なで反抗的に者には、隠されました。

7節「主は正しい人のために力を、完全な道を歩く人のために盾を備えて。」ここで正しい人、完全な道を歩く人とは、罪を一つも犯さない人のことではありません。創造主なる神様を知り、この神様を恐れ敬い、神様に信頼し、神様に頼って歩む人のことです。

ヤコブの手紙4章7~10節「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。

罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」

8節「裁きの道を守り、主の慈しみに生きる人の道を見守ってくださる。」主の教えに従う者には、神様の守りがあり、盾を備えて、力を下さいます。しかし悪知恵は、自分の身を滅ぼし、自分を殺すことになります。

9節「また、あなたは悟るであろう。正義と裁きと公平はすべて幸いに導く、と。」本当の知恵は、人を生かし、他人を助け、他人に仕えことを教えます。私たちは、知恵に従わないと、子ども対しては、たとえば、長男には厳し過ぎたり、次男には放任で甘やかしたりして、一貫性がなく、子どもたちを真に生かせません。

また平のサラリーマンとして猛烈社員で突っ走って来た人が、やがて課長や部長になったのはいいですが、部下の接し方に迷います。他人を生かす、正義と裁きと公平を知らずにいると、幸いとはなりません。

10節11節「 知恵があなたの心を訪れ、知識が魂の喜びとなり、慎重さが、あなたを保ち、英

知が守ってくれるので」。神様を心の中に迎え入れ、神様を恐れ敬うとき、慎重さと、思慮深さが生まれます。慎重さや思慮のある生活として、次のような例があります。

アメリカのニューオーリンズで、孤児院を経営していたアルゲリートという勇敢な女性がいました。孤児院の経営は大変なことでした。ある日、彼女は、町の酒場に寄付を募りに行きました。一人の酔っ払いが「うるせぇ。人がせっかくいい気持でいるところへ、そんな不景気な、つら出すな」と叫んだとたんに、コップが飛んできました。

アルゲリートの額に当たり、コップは割れ、額は血だらけになりました。彼女は、血をハンカチでぬぐい、壊れたコップをハンカチで包みました。そして「ありがとうございました。このコップは、私への贈り物としていただきました。さて、かわいそうな孤児のためには、何をいただけるでしょう」と、にこやかに話しかけました。

人々は、先を争って、お金を出し始めました。その酔っ払いは、席を立ちましたが、「孤児のために」と書いた多額のお金が、テーブルの上に残されていたそうです。

わたしたちは、ちょっとしたことで、すぐ怒ったり、ちょっとしたことで、失望したりしやすいです。しかし神様の愛を、体験することによって、平安と希望を頂き、初めて、他の人を生かす知恵を手にすることができるのではないでしょうか。

12節「あなたは悪い道から救い出され、暴言をはく者を免れることができる。」「暴言をはく者」と訳された原文の言葉は「ねじれごとを言う者」「裏切り者」「不真実な者」という意味でもあります。ねじれた、不信実な者であるなら、夫と妻の関係、嫁と姑との関係、職場の上司と部下の関係、近所の隣人との関係は、大変困難なものとなってゆきます。

ねじれた心というのは、二つの物差しを持つ心、ダブルスタンダードの心とも言えます。自分で花瓶を壊すと、「あ、失敗しちゃった」で、すますのですが、しかし他の人が壊そうものなら、「不注意だ、こころがけがなっていない」と、蔑んだり、さばいたり、小言を長く言ったりする。二つの物差しです。

こんな例もあります。一つの桃を200円で売っているのに、美人のお客さんには、100円で売っている八百屋さんをみたら、あなたは怒るに違いありません。しかし、自分にはいつも100円で売り、他の人には200円で売る。そんな売り方のような生活を、自分がしているのではないでしょうか。

私たちは、正しい知恵、正義と公儀と公平によって、人を大切にすることが必要です。自分自身の知恵のない生活を、主の御言葉に照らせて、悔い改める必要があります。他の人の不正や不公平を見て、自分はましだと思うなら、神様の恵みと憐れみがなければ、同じようなことをしてしまう、いやもっとひどいことをしてしまう、そんな自分がいることを、忘れてはなりません。

むしろ、今の楽しさ、平和、幸福は、決して自分が、りっぱだとか、みんなが、がんばっているからでもなく、神様の憐れみと、恵みと、支えがあってのことです。知恵とは、神様御自身という面があります。


そして神の言葉なるキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。コロサイの信徒への手紙2章3節「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

そしてこのキリストを心の王座に迎え入れるところに、知恵に基づいた、正しい歩みとなります。最後に、ユ・ギソンという方の「だれが私の心の王なのか」という内容を受け留めます。「今日、牧会者や信徒たちが、金銭問題や異性問題などの倫理的な問題で、つまずくのを見ることがあります。しかし、特別に、そのようなタイプの人だから、そのような過ちを犯すわけではありません。

私をはじめとする、だれもが、その可能性を持っているのです。イスカリオテのユダを、見てください。彼は、12弟子の一人でしたが、つまずきました。私たちは、イエス様に、自分の心の王になっていただかなければなりません。私たちは、どんなにがんばっても、自分の力では、心を守ることができないのです。

心を守れないなら、修道院に行ったとしても意味がありません。だれもがいない荒野でも、サタンは、私たちを誘惑してきます。私たちの心こそ、サタンが誘惑する場所なのです。イエス様を、心の王として迎えた人は、小さな利益のために、心が揺らぎません。いくら自分が大切に思っているものでも、主が喜ばず、許されないのであれば、すぐに切り捨てることができます。

イエス様を、心の王として、迎えて生きてください。そのような人が、神の国の働き人として用いられます。従順と忠実の実は、私たちの努力で結ばれるものではなく、イエス様を、心の王として迎えるとき、おのずと結ばれるもものなのです。私たちのうちに、王としておられイエス様が、私達を賢く、忠実な僕として整えてくださいます。」

主に愛されている皆さん、神の知恵なるキリストを心に迎え入れるだけでなく、私の心の王として迎えて、知恵が単に知識で終わらず、知恵ある生活と行動となって行きませんか。ご聖霊様に助けを求め、その導きに従ってゆきませんか。

お祈り致します。



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