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2022.11.6ヨハネによる福音書13章1~17節「弟子の足を洗われたイエス様」

牧師 松矢龍造


19世紀に日本の衆議院議長を務めた片岡健吉という敬虔なキリスト者がいました。この方が、政治上の問題で、石川島の監獄に投ぜられた時、一日中、便所掃除を命じられて、不満にたえず、申し訳ばかりのことをしておいて、官房に戻り、おりから読みさしの新約聖書を開きました。すると、あたかも導かれたように、ヨハネによる福音書13章にあります、イエス様が、弟子たちの足を洗われた記事に会いました。

すると、こつぜんとして悟るところがありました。「イエスさえもなお、弟子たちの足を洗われたというなら、わたくしの便所掃除くらい、何であろう。わたしはむしろ、今から残る生涯の全部をあげて、日本国民の汚れた足を洗うために、働くべきではないか」と。彼は、それから志を立てて、キリストを信じ、最後まで、真実を尽くして、国家に奉仕しました。


13章1節「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から、父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」

過ぎ越しの前とは、十字架につけられる金曜日の前日の木曜日と思われます。弟子たちを、この上なく愛し抜かれたとあります。「この上なく」と訳された原文の言葉は、「最後まで」「極限まで」「徹底的に」「完全に」「残ることなく」という意味でもあります。弟子たちのいかにかかわらず、無条件の愛で、極限まで愛し抜かれました。

2節「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」最後の晩餐の時、イスカリオテのシモンの子ユダは、悪魔の誘惑に乗り、イエス様を裏切ることを、心で決断していました。

イスカリオテの意味は、一つは、出身地の名前であり、ユダヤにあります区域の一つのケリオテ出身であったことを示しています。そしてもう一つの意味は、イスカリオテとは、噓つきの男、裏切り者という意です。


3節「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、」。いよいよ長老、祭司長、律法学者たちから、多くの苦しみを受けて、人類の罪の身代わりとなって十字架につけられ、殺されること。そして墓に葬られ、陰府に降られ、三日目に復活して、父なる神様がおられる、天に帰られる時が来たことを悟られました。

4節5節「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」

古代ユダヤ人社会では、主人の足を洗うのは、奴隷の仕事でした。イエス様は、奴隷の仕事を引き受けて、弟子たちの足を、たらいで洗い、腰にまとった手ぬぐいで、ふき始められました。

6節「シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、『主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか』と言った。」

ペトロが、イエス様のことを「主」と呼びかけましたが、「主」とは、主人を意味し、呼びかける時の尊称です。これが、イエス様に対して使われる時は、イエス様の神としての権威と力を強調しています。

7節「イエスは答えて、『わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる』と言われた。

イエス様が、弟子たちの足を洗われたことは、この世の罪の為に、十字架で死なれるという、これから行われる偉大な犠牲的行為の象徴でした。この時、弟子のペトロたちは、イエス様が、自分たちの足を洗われた行動が、どういう意味であるかは分からず、主の復活と、ご聖霊の降臨後に、分かるようになります。

8節「ペトロが、『わたしの足など、決して洗わないでください』と言うと、イエスは、『もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる』と答えられた。」

キリストの十字架の死と結びつけられることがなければ、キリスト・イエス様と何の関係もなくなります。ならば、罪と死と悪魔と虚無の中で、滅びるだけです。

9節10節「そこでシモン・ペトロが言った。『主よ、足だけでなく、手も頭も。』イエスは言われた。『既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。』」

体を洗った者とは、主イエス様を信じて、洗礼を受けた者のことです。洗礼を受けた者は、再び洗礼を受ける必要はなく、日々の生活の中で犯す罪を、悔い改める必要があると、イエス様が言われたと思います。しかし皆が、きよい分けではないと、加えられています。それは、イスカリオテのユダが、イエス様を信じることなく、洗礼を受けていないので、きよいわけではないと言われました。

11節「イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、『皆が清いわけではない』と言われたのである。」

イエス様は、イスカリオテのユダが裏切ることを知っておられながら、なおこのユダが悔い改める機会を与える為に、極みまで、愛し抜かれたのです。

12節「さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。『わたしがあなたがたにしたことが分かるか。』」

イエス様が、弟子たちの足を洗われたのは、十字架の死の象徴でしたが、加えて、最後まで愛されるしるしであり、また神様の御心に従うことのあらわれでした。そしてもう一つ、仕える模範を示されたのです。

13節~15節「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正

しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」

かつてインドの救世軍のウィルスリヤ大佐という方がおられました。ある時、地方を巡回して、二人の若い士官が、互いに相争っているのを見ました。すると、その二つりを並べて、椅子に腰をかけさせて、バケツに水をくんで来て、一人ずつ、その足を洗いました。

すると両人は、すぐに彼の意のあるところを理解しました。そして泣いて、今日までの高慢

と、わがままとを悔い改め、以来、互いに相愛しつつ、心を合わせて神様の御業に、いそしむようになりました。互いに足を洗い合う信仰と精神は、私達皆が、身に着ける必要があることです。

16節17節「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさり

はしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」

主であるイエス様に対して、弟子たちは僕です。また弟子たちを遣わされたのは、主イエス様であり、弟子たちは、主イエス様に、まさりません。であるのにもかかわらず、主人であり、遣わした方であるイエス様が、弟子たちの足を洗いました。

もっと言えば、主イエス様が、足を洗われた一人は、ご自身を裏切るユダです。また三度御自身を否むペトロです。そして誰が一番偉いかと議論している弟子たちの足です。

さらに仕える者は、うやまわられるほどに、幸いで祝福されるとイエス様は言われました。僕となって、ついに十字架で死なれた神の御子に従うことは、父なる神様に迎えられる、幸いへと結びいてゆきます。


イエス様は、仕える王者でした。イザヤ書53章12節「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取

り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」

このイエス様の、仕えられ、犠牲となられ、愛されたイエス様の愛に、わたしたちは、どのように答えてゆくでしょうか。謙遜を学ぶことと、そしてもう一つ、ご聖霊から、謙遜の霊の賜物を頂くこと、このどちらも必要です。この二つが、なければ、肉の力では、謙遜になって仕えることは、不可能です。

ローマ・カトリック教会では、洗足式があり、形から入ります。しかしプロテステントでは、形があっても、仕える心がなければ空しいと、あまり洗足式を行いません。しかしどちらも、必要です。へりくだる霊の賜物と、仕える修練の両方が必要です。

岡山県にあります孤児院を始められた石井十次というキリスト者がおられました。彼は聖書を読んで「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」に出会いました。

そしてもう一つローマの信徒への手紙9章3節「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞

のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」

この二つの聖句に感激するあまり、ナイフで指を切り、血を出して、昔、侍が血判するようになったつもりで、二つの聖句の上から下まで、血の線を引きました。すなわち、イエス様の模範にならうことと、同胞の救いの為に、己を捨てることと、この二つの実行を、彼は血をもって、神様に誓いました。そして彼は、長くもない一生のうちに、幾百千の孤児を救護し得た事業は、実にこの精神の実現でした。

互いに仕えることや、愛の実践は、実行してこそ、初めて本当の価値があり、幸いとなりま

す。自らを低くして、互いに仕え合い、兄弟愛を実践してこそ、イエス様の模範に、ご聖霊によって倣うことです。

私たちが、兄弟姉妹を、きよい、高貴な生活に引き上げることができるのは、私達が、最も低く謙遜になるときだけです。私たちも、その道に、ご聖霊によって、進んでゆきませんか。

最後に、フィリピの信徒への手紙2章7~11節を拝読して閉じます。「キリストは、神の身分

でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうし

て、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

お祈り致します。

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