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2022.12.11ヨハネによる福音書15章1~10節「主イエス様はぶどうの木、あなたがたはその枝です」


牧師 松矢龍造


神様と人間との関係は、聖書の中で、いくつかに例えられています。代表的なものとして、夫と妻、父と子、羊飼いと羊、そして、ぶどうの木の例えです。旧約聖書では、ぶどうの木や、ぶどう園は、神の民イスラエルをたとえるのに、多く用いられてきました。

たとえば、ホセア書10章1節「イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等し

い。実を結ぶにつれて、祭壇を増し、国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。」あるいは詩編80編9節「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました。」


しかし旧約聖書には加えて、神の民とされたイスラエルが、持ち主なる創造主なる神様が期待されている実を結ばない、ぶどうの木や畑として描かれている箇所がいくつもあります。たとえばエレミヤ書2章21節「わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる、確かな種として植えたのに、どうして、わたしに背いて、悪い野ぶどうに変わり果てたのか。」

イザヤ書5章1~7節「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために。そのぶどう畑の愛の歌

を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に、ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。

しかし、実ったのは酸っぱい、ぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ、わたしと、わたしの、ぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしが、ぶどう畑のためになすべきことで何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは、良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱい、ぶどうが実ったのか。

さあ、お前たちに告げよう、わたしがこの、ぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主の、ぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁きを待っておられたのに、見よ、流血。正義を待っておられたのに、見よ、叫喚。」

私たちも、創造主によって、良い実りを期待されて、この世に生を受けました。しかしどんな良い実を結んでいるでしょうか。あるいは、どんな悪しき実を結んでしまっているでしょうか。

今日の御言葉では、イエス様御自身が、ぶどうの木にたとえられています。しかもイエス様は、御自身のことを、多くの小枝を伸ばす、ぶどうの木と言われています。15章1節「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」

ここでは、イエス様が、ぶどうの木であり、父なる神様が、農夫にたとえられています。2節「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」

ぶどうの木が、よく実を結ぶように、農夫は世話をします。古い枝や、実を結ばない枝を、剪定して切る必要があります。ぶどうの木は、剪定しないと、多くの実をつけることが出来ません。

「取り除かれる」と訳された原文の言葉は「刈り込む」「きよくする」「余分なものを除く」「清潔にする」という意味でもあります。枝がイエス様から離れることは、一つの意味は、イエス様を信じない、新生しないことと、もう一つ、剪定とは、聖く変えられる聖化のたとえでもあります。新生にしても、聖化にしても、祈りが必要です。

祈りの秘訣は、私たちが、神様と一つとなる生活を営んでいることと深い関係があります。そして聖い生活こそ、力ある祈りの背景と言われています。

宗教改革者の一人マルチン・ルターが次のように言われます。「祈りの人にあらずして、まことの信者、また神の子どもたることはできない。呼吸の肉体におけるごとく、祈りは霊魂にとって大切である。呼吸が絶えると、肉体が死ぬごとく、祈りがなくなると、霊魂は滅びる。それ故、人々に勧めて言え。『祈りは人間最善の事業である』と。」

3節「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」イエス様が話された、キリストの福音の言葉を信じる者は、既に霊的にきよくされています。そしてさらに、生活において、世的なものから、きよめられ、キリストに似た者として、変えられ、きよめられ続けることが必要です。

4節「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」

キリストにつながり、キリストにとどまるとは、少なくても、5つの要素があります。一つは、イエス様が、神の御子であると信じることです。二つ目に、イエス様を、私の救い主として受け入れることです。三つ目に、神様が言われることを行うことです。四つ目に、キリストの福音を信じ続けることです。五つ目に、キリストの体である信者たちの共同体である教会と、愛によって繋がりを持つことです。

5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

ぶどうの木なるイエス様につながる枝だけが実を結びます。ですから、一日たりとも、キリストを忘れないように、生活の中で、祈りと静思の時を守ることが重要です。そして父なる神様を礼拝し、愛し、感謝し、讃美する主日公同礼拝や祈祷会や小グループを大切にすることも同じく重要です。

6節「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そし

て、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」

実を結ばない枝は、切り落とされた後に、乾燥させて燃やされました。ぶどの枝は細くて、木工製品などに加工することはできません。ですから良い実を結ばないなら、何の役にもたたないので、焼かれるだけです。

エゼキエル書15章2~4節「人の子よ、ぶどうの木は森の木々の中で、枝のあるどの木よりもすぐれているであろうか。ぶどうの木から、何か役に立つものを作るための木材がとれるだろうか。それで、何かの器物を掛ける釘を作ることができるだろうか。それが火に投げ込まれると、火はその両端を焼き、真ん中も焦がされてしまう。それでも何かの役に立つだろうか。」

最後の晩餐の時に、イスカリオテのユダは、イエス様を裏切るために、外に出て行きました。まさにユダは、無益な枝として、刈り込まれました。神様のために実を結ばない人や、神様の信者たちの努力を妨げようとする人々は、取り除かれます。

7節「あなたがたが、わたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」主イエス様とつながり、絶えずイエス様の言葉が心の中にある時、イエス様の心と一つとなり、イエス様の御心のものを望むなら、必ず叶えてもらえます。

8節「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」イエス様が、弟子たちに望まれる実は、神様と隣人への愛に基づくものです。そして神様の栄光のための実を結びます。かつて近代科学の著名人の人であるキリスト者・アイザック・ニュートンは、物理学を通して神様の栄光を表しました。またバッハは、音楽を通して、そしてミケランジェロは、美術を通して、さらにジャン・カルヴァンは、神学と実践を通して、神様の栄光を表しました。私たちも、愛の実、神様への栄光の実を、結べますように。

しかしもし主に不従順となるなら、神様と人と自分を汚すことになります。あの旧約時代のダビデ王は、姦淫と殺人の罪を犯し、敵が神様を冒涜する原因を作ってしまいました。悔い改めて、主に拠り頼んで、主に従うなら、主は恵みを与えてくださいます。

9節10節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」

愛と従順の原型は、父なる神様と、御子なるイエス様の関係にあります。そして愛と従順の実は、イエス様の真の弟子であるしるしとなります。


イエス様が、このぶどうの木のたとえをされた背景には、この後に十字架につけられて息を引き取るまで、ぶどうの木から作られたものを飲むことをしないと言われる中でのことです。主イエス様が、十字架につけられることを非常に意識されながら語られました。その断食は、苦難への覚悟です。主イエス様は、十字架を通しての愛の中で、私の愛に留まっていなさい。私とつながっていなさいと言われています。

このイエス様に留まるなら、私たちの心に、喜びが湧いてきます。この主イエス様に、御聖霊と信仰、祈りと御言葉、愛と従順とによってつながっているなら、私たちも、イエス様からの霊的な養分を頂いて、良き実を結ばせて頂けます。あなたも、常に、日々、イエス様にとどまり、つながってゆきませんか。お祈り致します。


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