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2022.12.18ヨハネによる福音書 15 章 11~17 節「主イエス様に愛され選ばれた者の生活」

牧師 松矢龍造

あるアンケートで、「友だちに何を求めますか」というものがありました。一つは、心を開いて 安心して話せる人。二つ目に、本気でしかってくれる人。三つ目に、一緒にいるだけで楽しい人というのが、最も多いものでした。 それでは、そんな友達がいますか。あるいは、あなたはそのような友となっていますか。これに対しては、誰もこのような本当の友がいません。また自分は他の人に対して、このような友となっていませんと答えているとのことでした。それ故に、主イエス様を友とすることが大切になります。 歴史上、神様の友と言われた人たちがいました。一人は、アブラハムです。ヤコブの手紙 2 章23 節「『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」 あるいはモーセも、神の友と言われています。出エジプト記 33 章 11 節「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者である若 者、ヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった。」 旧約時代、アブラハムやモーセは、特別な人でした。ところが、イエス様は、「あなたがたは、わたしの友である」と弟子たちに言われています。それは、イエス様を信じて、イエス様が命じられることを行う人、すべてに対して「わたしの友である」と言われています。 そして主が命じておられることとは、「互いに愛し合いなさい」ということです。これはすで に、ヨハネによる福音書 13 章で言われていたことです。イエス様は、このことを再度言われてお り、重要であることを確認されています。13 章 34 節 35 節「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさ い。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが、わたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」 教会とは、神様によって召し集められた者たちの集まりのことです。この教会である私たち が、互いに愛し合ったら、すなわちイエス様の友であることが知られたら、教会はまさに、争い悩む世に対して、真の希望となります。地域教会が、主に愛されたように、愛し合うなら、まさに世の光となります。 それでは、15 章 11 節「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」 イエス様の喜びとは何でしょうか。人間の考える喜びは、人生から神様を締め出した上で、可能な限り、幸せになることです。しかしイエス様が言われる真の喜びとは、神様を可能な限り、自分の人生に迎え入れる時に、心の中に湧いてくる喜びのことです。 それは、キリストに留まり、その戒めを守った時に満たされる喜びです。その戒めは、愛をもって仕えることから得られる喜びです。私も、イエス様の御心に沿って歩ませて頂いている時 が、最も平安で、真の喜びに近いと霊的に思います。


ですから、イエス様の言われる喜びとは、人間の肉の喜びのことではなく、神様の愛の内に安んじて、神様との交わりの内にもつ喜びのことです。そして神様に拠り頼むときに生まれる喜びのことでもあります。それは死の前であっても、動かぬ喜びのことです。イエス様は、苦難の十字架の後に、栄光の復活があることを、喜びとされていのではないでしょうか。その喜びは、状況に打ち勝ち、神様のものとされた喜びのことでもあります。 使徒言行録 5 章 41 節 42 節「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」 加えて、イエス様の喜びは、さらに言えば、弟子たちの存在そのものが喜びであり、また弟子たちが滅びから救われることであり、そして弟子たちが、愛の人に変えられてゆくことです。私が牧師としての喜びとしていることは、人がイエス様を信じて救われ、主の弟子として成長し続けることを見ることです。それはイエス様の喜びに近い気がします。 続いて、12 節「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」 私たちの相互の愛の基礎は、主イエス様の十字架の死によって示された愛です。イグナチウスという聖徒が次のように言われています。「愛の火は、いつまでも消えず、十字架を燃料として、ますます燃え上がる。」 13 節「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」「友」と訳された原文の言葉は、「好意を持つ人」「仲間」「味方」という意味でもあります。そして友に対する最大の愛は、友の為に、自分の命を捨てることだとイエス様は言われました。そしてその言葉通り、十字架で、私たちの為に、自分の命を捧げられました。 ローマの信徒への手紙 5 章 8 節「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」 そして友の為に命を捨てることは、私たちにも要求されていることです。ヨハネの手紙一 3 章 16 節「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」 かつて日本の作家の一人、太宰治という方が、「走れメロス」という小説を出されました。若い時、聖書を読んで、その理想に心燃やされた作品です。しかし晩年彼は、自分に絶望して、自死を選びました。彼は常々こう言っていたそうです。「聖書を読みますが、教会には行きません。」 彼は教会に行かずに、聖書を私的に解釈して、自分の肉の力でできないと絶望してゆきました。しかし教会に来て、聖書を読んでいたら、そんな肉の自分に絶望して、心貧しくなったなら、主イエス様の救いを是非、求めて欲しかったと、残念な思いになります。 私たちは、肉の力では、友の為に命を捨てることはできません。御聖霊から特別な愛と力の賜物を頂いてこそ、実現してゆくものです。 14 節「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」人となられたイエス様は、多くの苦しみによって従順を学ばれました。それは友とされているという身分から、実質的に友となって行く過程で必要なことではないでしょうか。 ヘブライ人への手紙 5 章 8 節「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」主が命じられることを、何でも行う時、私たちが主イエスの友であるあることが、世に知られてゆきます。

15 節「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」 僕とは、決まった仕事をするために、雇われた人のことではなく、他人に所有され管理される奴隷のことです。主人は、奴隷や僕の場合、対等と思わず、友人同士のようには話しかけませ ん。しかしイエス様は、私たちを友と呼ぶので、父なる神様から聞いたことを、イエス様を信じる人たちに知らせます。 かつてあの旧約時代に、神様の友と呼ばれたアブラハムに対して、神様は知らせていました。創世記 18 章 17 節「主は言われた。『わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。』」 16 節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」 主イエス様は、15 章の初めに語られた、ぶどうの木の例えを、再びイメージして弟子たちに任命のことを語られます。神様の選びは愛による選びです。エフェソの信徒への手紙 1 章 4 節 5 節「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしよう と、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」 神様の愛による選びや任命は、弟子たちの業を、絶えず鼓舞し、豊かな実を結ばせる源泉となってゆきます。不完全な弟子です。イエス様を三度否むペトロ、イエス様を見捨て逃げる弟子たち。そんな弟子たち、いや私たちを、なお愛をもって選び、それぞれの働きに任命してくださっています。 その祈りとは、キリストの名による祈りであり、信仰による祈りです。ですから利己的な祈りであってはならず、神様の御旨をなしてくださいという祈りです。その時に、出かけて行って実を結び、その実が残って行きます。 17 節「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」キリスト者は、世から多くの憎しみを受ける場合があります。その中で、私たちは互いに愛し合い、支え合う必要があります。あなたは、小さな問題を理由にして、他の信者を愛することを止めていないでしょうか。キリスト者は、互いに、主にあって愛し合い、結束して、反キリストの勢力に対して、一致して立ち向かうことが大切です。


父と子と弟子の愛による一致の中に身を置くことは、どんなものにも代えることが出来ない、最上の喜びです。また愛と喜びは、弟子たちと、彼らの主との霊的な結合を象徴づけています。そしてイエス様は、愛する強さを、私たちに与えてくださいます。 主イエス様は、最初に、先ず私たちを愛して、私たちの為に死ぬこと、そして永遠にご自身と共に生きるように、私たちを招くために選んでくださいました。ならば私たちは、自発的に、神様の選びに対して、応答することがふさわしいです。選びは、任命へと繋がってゆきます。愛の実、宣教の実を祈り、御聖霊によって、良き実を結ばせていただきませんか。お祈り致します。

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