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2022.12.4ヨハネによる福音書14章15~31節「平安を与える真理と弁護者なる御聖霊」

牧師 松矢龍造


私たちは、誰でも平安や平和を求めているのではないでしょうか。古代の神学者であるアウグスティヌスという方が言われます。「革命家であれ、戦争屋であれ、人は誰でも平安を欲する。」 ところが、空想、快楽、娯楽で、人生の不快な出来事から、一時逃れることがあります。それを逃避主義的な平安と言います。さらに偽りの平安で誤魔化すこともあります。「平安がないのに、『平安だ、平安だ』」と叫ぶとき、それが災難の始まりでもあります。

これに対して、主イエス様が与えられる平安や平和は、世が与える平安ではありません。今日の御言葉である14章27節「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」


主イエス様が与える平安や平和は、私たちが、どんな言動をなしたとしても、神様は、私たち

一人ひとりの存在を、あるがままで、そのままで、愛してくださっている平安です。また罪が主

イエス様の十字架によって赦されている平安、死の解決が、主イエス様の復活によって与えられ

ている平安、永遠の命が与えられている平安、主の御心に沿って歩んでいる時の平安、御聖霊が内側に宿って頂いている平安。そして主イエス様が、共にいてくださる平安です。これらは全て、世が与える平安や平和ではありません。

マーシュー・ヘンリーという聖書学者が、主イエス様が遺された平安のことを次のように言われていました。「キリストは、世を去る前に、遺言を遺してして、そのなき後の処置をなさいました。すなわち、彼の霊魂は父なる神様に帰し、彼の肉体はアリマタヤのヨセフに委ね、彼の衣服は、ローマ兵に与え、彼の母は、これをヨハネに託された。しからば、かねがね、一切を捨てて、キリストに従った弟子たちには、何を遺されたのでしょうか。金銀は所有するところではありませんでしたけれども、彼は、それよりも、はるかに優れたもの、すなわち、彼の平安を遺されました。」それは、キリストを信じる私たちに対しても、受けているものです。

14章15節「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」


イエス様は、今まで、御自身が弟子たちを愛されていること、また弟子たちが互いに愛し合う

ことを語ってこられました。ここで初めて、イエス様に対する、弟子たちの愛が、取り上げられ

ています。私たちのイエス様に対する愛が、もっとも証拠となるものは、イエス様の掟を守るこ

とを通してです。その掟の中心は、心を尽くして神様を愛し、隣人を自分と同じように愛するこ

とです。


16節「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にい

るようにしてくださる。」


悪魔は、私たち人間の罪を、訴える者です。それに対して、力強い味方となって、同情をもっ

て弁護してくださる御聖霊を、永遠に、あなたがたと一緒にいるようにしてくださると言われま

した。


弁護者と訳された原文の言葉は「助け主」あるいは「仲保者」とも訳されます。もともとは、

私たちの助け手として、私たちの傍らに呼ばれた者という意味です。一緒にいてくださる。それ

は主イエス様が、復活される故、また再臨される故、そして御聖霊によって共にいてくださるこ

とによってです。


17節「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入

れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共にお

り、これからも、あなたがたの内にいるからである。」


真理とはイエス様のことですから、御聖霊は、キリストの霊です。世とは、この世に暮らして

いる人々であるとともに、彼らを支配しようとする悪の勢力のことでもあります。キリストを拒

むなら、悪の支配下にいて、罪人として、御聖霊を宿すことはできません。


コリントの信徒への手紙一2章14節「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。そ

の人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるか

らです。」


しかし御子であり救い主なるイエス様を信じる者の内側には、御聖霊が内住され、イエス様

は、この御霊によって私たちの内側に住んでくださいます。ヨハネの手紙一2章27節「しか

し、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける

必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」

18節「わたしは、あなたがたを、みなしごには、しておかない。あなたがたのところに戻って来る。」かつて岡山にあります孤児院を創設された石井十次というキリスト者は、イエス様を信じていない日本社会のことを次のように言われました。「日本人は孤児である。」イエス様は、復活して天に昇られ、また世の終末において再び戻って来られます。そして御聖霊の降臨によって、信じる者に内側に住み、共にいて、みなしごにはされません。

19~21節「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

イエス様は、十字架の死によって、見えなくなります。しかし復活されて、弟子たちに現れます。そして信じる者の内に、御霊によって内住されるので、父なる神様の愛と、イエス様の愛を頂いて、父と御子を愛して、その掟を守ります。

22~24節「イスカリオテでない方のユダが、『主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか』と言った。イエスはこう答えて言われた。『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。』」

イスカリオテのユダではないユダは、ヤコブの息子ユダのことです。イスカリオテのユダは、主を愛することなく、その言葉も守りませんでした。しかし別のユダは、イエス様を愛し、主の言葉を守ります。

旧約時代にも、御聖霊なる神様は、様々な時に下られましたが、彼らから離れることも、しばしばありました。しかし、新約時代は、御聖霊が下られると、キリスト者の内に、永遠に住まわれます。 そして離れることなく、信者を導き助け、必要な知恵と力を与えます。すると父なる神様やイエス様が望まれるように生きることを助けてくださり、この世において、キリストの教会を建てあげて行かれます。

25~26節「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

真理の霊なる御聖霊様は、私たちを、キリストと堅く結びつけ、かつイエス様が教えられた言葉を思い起こさせて、私たちと教会を前に進ませます。

27節「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」

主イエス様が与えられる平和は、世の肉的な成功や、快楽によって与えられるような、うわべの安心ではありません。イエス様が与えられる平和は、罪が赦されて、父なる神様と和解させて頂ける平和です。また内なる良心の平安です。そして永遠にまで続く命の賜物を頂ける平和です。

主の平和は、単なる満足や、争いのない状態以上のことです。それは完全な幸福感と、心と体と精神において、十全な状態のことです。ある御婦人の例です。彼女は、夫も子どもも亡くし、自らも肺結核を患い、天涯孤独の身の上でした。「不安と恐れ」という言葉は、この人のためあると思えるほどの人でした。生活保護を除いては、なんの保証もない人です。

ところが、はるかに恵まれた境遇にある人たちが、不平や不満や愚痴をこぼしている中で、彼女は「自分には何一つ心配することはなく、平安です」と澄んで目で話されます。この姉妹の内には、主イエス様に、全幅の信頼と望みを置いているからでした。この平安が、どのような困難にも耐えさせ、さらに勝利の確信を与えます。

28節「『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。」

イエス様は、復活されて、父なる神様のそばで、被造物の全てを治めるために、天に帰られます。御子なるイエス様は、御父と同等のお方ですが、人間として遣わされ、力を制限されておられましたから、父なる神様の方が、偉大な方と言われました。


29節30節「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。」

イエス様が十字架にかかられ、復活された後に、弟子たちが信じる為に、あらかじめイエス様は語られました。世の支配者とは悪魔のことですが、イエス様に対して、悪魔は、なにもすることが出来ません。

31節「わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」イエス様は、最後の晩餐をなさった部屋を出て、オリーブ山に向かわれることと、十字架に向かわれる意志が語られています。それは、父なる神様を愛しているので、父がお命じなられたとおりに、立ち上がって行かれました。

この救い主を愛すれば愛するほど、ますます私たちは、主イエス様を体験的に深く知ることができます。この主イエス様を、祈りと御言葉と御聖霊の助けの中で、さらに愛して、従って行きませんか。お祈り致します。


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