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2022.2.16希望の祈祷会 民数記31 章1~54 節「罪をきよめる戦い」

牧師 松矢龍造


新約時代において、特定の民族に対して、聖絶が命じられることはあり得ません。むしろ愛をもって悔い改めと真の信仰に導き、彼らを滅びから救済すべきです。マタイによる福音書5 章44 節「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」けれど、旧約時代には、罪を取り除く為の戦というものがありました。それは誘惑する存在を取り除き、罪をきよめる戦でした。けれど新約時代は、罪をきよめて、誘惑される存在から遠ざかることや、誘惑に打ち勝つことが求められます。人という血肉との戦ではなく、悪魔と内なる肉欲との戦いとなります。

主は天に召される日が近づいたモーセに対して、ミディアン人から受けた仕打ちに対して報復してから、先祖の列に加えられると告げられました。

ミディアン人は、先にイスラエルの民を誘惑して、偶像に走らせ、その結果イスラエルの民2 万4 千人もの人々が、主に裁かれて死んだことがありました。そして誘惑をしたミディアン人に対しての、主からの復讐が命じられました。

ミディアン人は、もともとは、アブラハムと二番目の妻であるケトラとの間に生まれた子どもの子孫と言われています。遊牧民族であり、かつてモーセは、ミディアン人のもとで40 年間過ごし、妻と舅はミディアン人でした。ミディアン人は、シナイ半島東部からパレスチナ南東部にかけて、おもにアラビヤ砂漠に分布していました。

かつてはエジプトから出て来たイスラエル人に対して、ミディアン人の一部は、かなり友好的な人たちがいました。しかしイスラエルの民が、荒れ野を放浪中、多くのミディアン人たちは、モアブ人と同様に、淫行的なバアル・ペオルの宗教を持って、イスラエルを唆しています。民数記25章1 節2 節「イスラエルがシティムに滞在していたとき、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた。娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげるときに民を招き、民はその食事に加わって娘たちの神々を拝んだ。」

そして25 章14~18 節「ミディアン人の女と一緒に殺されたイスラエル人の名は、サルの子ジムリといい、シメオン族のうちの家族の指導者であった。また、殺されたミディアン人の女の名はコズビといい、ミディアン人の部族の父祖の家の長であるツルの娘であった。

主はモーセに仰せになった。『ミディアン人を襲い、彼らを撃ちなさい。彼らは、お前たちを巧みに惑わして襲い、ペオルの事件を引き起こし、またこの事件のために災害が襲った日に殺された彼らの同族の女、ミディアン人の指導者の娘コズビの事件を起こしたからである。』」

主はミディアン人との戦の為に、12 族からそれぞれ千人ずつ兵士を集めよと言われました。イスラエルの兵士は、60 万人です。民数記26 章51 節「以上がイスラエルの子孫で、登録された者は総計六十万一千七百三十人であった。」ですから決して多い数ではありません。これは主の戦いなので、多くの人を持って救うも、少なくても、主に妨げはないことが分かります。レビ記26 章7節8節「あなたたちは敵を追撃し、剣にかけて滅ぼす。あなたたちは五人で百人の敵を、百人で一万の敵を追撃し、剣にかけて滅ぼす。」主に命じられた通りに、1万2 千で、ミディアンの人々と戦うと、主にあって勝利します。しかしモーセは、戦を終えて帰還した軍の指揮官たち、千人隊長、百人隊長に向かって怒り、彼らに言いました。15 節「女たちを皆、生かしておいたのか。ペオルの事件は、この女たちがバラムに唆され、イスラエルの人々を主に背かせて引き起こしたもので、そのために、主の共同体に災いがくだったではないか。直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。」

神様は、将来への教訓としても、ミディアン人への報復を命じられ、誘惑した女性たちも聖絶するように言われました。

加えて、ミディアン人の王たちと共に、呪術師ベオルの子バラムも剣にかけられています。イスラエルの民を、女性を用いて誘惑させ、偶像礼拝をなさせて、内部からイスラエルを崩壊させる知恵を授けたのは、このバラムでした。これによって、バアルは、見せかけだけの良い人だったという聖書の最初の証拠を知ることが出来ます。これもまた誘惑されるものを除去する一つでした。この戦の先頭に立つ指揮官は、モーセでもヨシュアでもなく、祭司ピネハスでした。この人物は、バアル・ペオルの事件の折にも、異教的習慣の除去のために、大胆に行動しました。大祭司であるエルアザルには、幕屋を離れることや死体に触れることが許されないので、息子のピネハスが、イスラエルの祭司として、軍と共に派遣されました。ミディアン人との戦闘は、祭司と聖なる祭具が伴っていたため、聖戦と見なされるかもしれません。どの祭具が戦場に持ち込まれたかは、明確にされていません。おそらく、角笛か神託を受けるためのウリムとトンミム、もしくは契約の箱のいずれかでしょう。

聖戦において、勝利した後、捕虜と財産は、神様に捧げられました。また死体に触れると、祭儀的に汚れているとみなされました。それできよめられるために、赤毛の雌牛の灰を使った、きよめの儀式を経なければなりませんでした。汚れた者は、そのままでは、宿営の中に入ることは許されていませんでした。

さらに戦の後に、兵士の点呼がなされました。すると1 万2 千のうち、一人も欠けていませんでした。戦闘をなして、一人の生命も失われない。そのことの感謝と共に、民の数を数えることも含めて、指揮官たちは、主に献げ物をしました。

古代イスラエルにおいて、人の調査及び、兵士の数を数えることは、神様の統治に対する領域に、人間が関与することを意味するので、神様に贖いの代価を捧げる必要があると考えられました。出エジプト記30 章11~16 節「主はモーセに仰せになった。あなたがイスラエルの人々の人口を調査して、彼らを登録させるとき、登録に際して、各自は命の代償を主に支払わねばならない。登録することによって彼らに災いがふりかからぬためである。登録が済んだ者はすべて、聖所のシェケルで銀半シェケルを主への献納物として支払う。一シェケルは二十ゲラに当たる。登録を済ませた二十歳以上の男子は、主への献納物としてこれを支払う。あなたたちの命を贖うために主への献納物として支払う銀は半シェケルである。豊かな者がそれ以上支払うことも、貧しい者がそれ以下支払うことも禁じる。あなたがイスラエルの人々から集めた命の代償金は臨在の幕屋のために用いる。それは、イスラエルの人々が主の御前で覚えられるために、あなたたちの命を贖うためである。」

さらに、農耕による収穫物だけでなく、戦いで略奪したものでも、必ず一部が、祭司とレビ人に分けられました。レビ人に対しては、50 分の一、祭司に対しては、500 分の一の割りあいで分かち合われました。レビ人に対して、祭司の10 倍となっているのは、レビ人の数が多かった為でしょう。

私たちは、このミディアン人の聖絶に対して、信仰的な教訓として受け留めることは、自分自身の中に残っている罪の習慣を霊的に皆殺しにしなければならないということです。50 節に贖いの儀式と訳された言葉は、「宥める」あるいは「覆う」という意味でもあります。罪に対する報酬は死ですが、キリストが、十字架の贖いによって、私たちの罪の為に宥めの供え物となって下さり、罪を覆ってくださいました。その感謝と共に、自分の罪の習慣を断ち切る必要があります。ご聖霊様に祈り、助けを頂きながら、悔い改め、聖化され続けることになりますように。そして罪とその習慣に捕らわれている人々の救いの為にも、祈りつつ、愛をもって、ご聖霊の力を頂いて、イエス・キリストによる救いを証してゆきます。

最期に、キム・ギソクという方の「みことばによって心を調律しましょう」という内容を受け留めます。「ネイティブ・アメリカンたちは、馬に乗って走っている途中、時々、立ち止まります。自分のたましいが、ちゃんとついてこられるように待つためだそうです。急いだために、理性を失い、失敗することがないように警戒し、心の弦を調律するという意味です。私たちも、自分より先に、人が良いものを手に入れるのではないかと思い、気持ちだけが先走り、いつも疲れ切っています。時には立ち止まり、自分が歩いて来た道を振り返ることも大切です。特に、信徒は、しきりに立ち止まって、神様のみことばによって、心を調律しなければなりません。放っておくと、私たちの心は、よじれた木材のように曲がってしまいます。そのような心から葛藤や争いが生まれるのです。また、この世に蔓延した悪を、そのまま放っておき、常に自己反省だけをして生きるのも、よくありません。そうなると、悪者たちに利用されやすくなるからです。自分の心の点検も必要ですが、目を開けて、構造的な悪も見極めなければなりません。そうしてこそ、知らないうちに、罪の共犯者になるのを防ぐことができます。インマヌエル・カントは、『人間という、ひねくれた木材から取り分けられたものによっては、何も作ることができない』と言いました。悲観的に聞こえるかもしれませんが、人間は、神様のことばによって自分を点検しなければ、罪の道に傾くしかありません。同時に、社会の悪を見て見ぬふりをしてはいけません。不義に対して、沈黙して抗議しないことは、人間の法廷では無罪かもしれませんが、神様の法廷では有罪なのです。」主に愛されている皆さん、神様の御言葉によって、日々自分と社会を点検し、自分と社会の歪みを見て、誘惑と罪を取り除く歩みを、ご聖霊によって力を頂きながら、行ってゆきませんか。

お祈り致します。

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