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2022.2.20ヨハネによる福音書4 章27~42 節「魂の糧と救いという刈り入れ」

牧師 松矢龍造


皆さんは、最初に誰からキリストの福音という種を心に蒔かれたでしょうか。そして誰が、皆さんの信仰と救いという刈り入れをしたでしょうか。ある方は、父や母、祖父母や友人が、福音の種を蒔いてくれましたというでしょう。そして教会の兄弟姉妹や牧師や宣教師が、信仰に導いて、洗礼へと刈り入れてくだいましたと答えられるかもしれません。

私の場合は、高校の国語の教師がクリスチャンでした。その人が最初に福音の種を蒔いて下さいました。そして教会の神学生が、信仰的刈り取りをして、決心に導いて下さいました。そしてこれらキリストの福音の種蒔きと、信仰的な刈り取りは、ご聖霊なる神様によって起こります。今日の御言葉には、サマリア人の人々が、イエス様を「世の救い主」であると分かり、信じることが起こります。そのように洞察が出来たのは、ご聖霊の働きです。

ユダヤ人の多くの人々が、イエス様を信じないのに対して、サマリア人の人々が多く信じたということは、皮肉なことですが、しかしイエス様は、全世界の救い主であることが、結果的に更に世に示されました。サマリア人、ユダヤ人、それ以外の人々も、区別も差別もありません。全ての人々の救い主が、主イエス様です。そして全ての人々に対して、霊と真理をもって、創造主にして、救い主なる神様を礼拝する道が開かれています。さらに神の御子イエス様の来臨と救いによって、差別と偏見、敵意という中垣が取り除かれることになりました。その場所が、ユダヤ人とサマリア人の両民族の共通の父祖であるヤコブの掘った井戸の傍らで起こった出来事であることは、とても意義あることでした。

ガラテヤの信徒への手紙3 章26~29 節「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに

結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」

今日の御言葉をもう一度27 節「ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、『何か御用ですか』とか、『何をこの人と話しておられるのですか』と言う者はいなかった。」弟子たちが驚いたのは、ユダヤでは、ラビは、女性には教えないことになっていました。また男子は、公の場所で、女性と語ってはならないとラビの戒律にありました。しかも異教徒と思われていたサマリア人であり、この女性が罪人と言われていたことを知っていたかもしれません。しかしそれ以上に、イエス様には、この時近づきがたい威厳のある態度の故に、問いかけることが出来ないような、たたずまいが、あったのではないでしょうか。

28 節29 節「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。』」

人目をはばかって、日照りの強い昼に、井戸に水を汲みに来ていた女性が、水瓶まで置いて、人々のいるところに行くのは、どうしても伝えたかったからでしょう。魂の渇き、罪からの罪責感、心の核の渇きが癒され、他の人を思いやり始めました。私のように魂の飢え渇きをしている人々がいる。罪人から、イエス様に出会って聖徒とされ、さらに聖徒から直ちに救霊の戦士とされています。もっと言えば、いやしい罪人であった彼女は、イエス様と出会って、信仰を通して、大きな変化を頂き、歓喜を持って帰って来て、しかもキリストを証しつつ、人々のいる町に来ているのです。ここで女性は「もしかしたら」と訳されている言葉を使っています。原文では、「この方以外にいるでしょうか」という意味の言葉です。今まであった中で、私の魂の渇きと罪の赦しを与えるお方は、この方以外にいるでしょうか。そのような響きです。この女性は、先のニコデモのような学者や議員ではありません。多くの人々を導いたのは、無学な凡人にして、社会から冷たい目で見られていた人で、また女性でした。神様は、どんな人でもお用いになることがお出来になられます。使徒言行録4 章13 節「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。」

さらにコリントの信徒への手紙一1 章26~31 節「兄弟たち、あなたがたが召されたときのこ

とを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」

サマリアの人々が、女性から話を聞くと、人々は、町を出て井戸にいるイエス様のところに向かいました。人々が、イエス様のところに来るまでの時間の間に、弟子たちはイエス様に食事を勧めました。するとイエス様は、「わたしには、あなたがたの知らない食べ物がある」と言われました。肉体は、食事をしないと死んでしまいます。ですから肉体の命が続く為には、どうしても食事が必要となります。イエス様が言われた食事とは、霊的な食事のことです。人の魂は、神様の御心に従うことによって養われます。また霊的な食物とは、神様の御心を行い、神様の救いの御業を成し遂げることから生じます。そして霊は、神様に捧げる時に養われます。霊的に、どうしても必要なことは、神様の御心を行い、その業を成し遂げることです。そこには、イエス様の為に働く喜びと、新しい信仰者という収穫を喜ぶことが加わってゆきます。

イエス様は続けて言われました。35 節「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」

この時、地上の穀物の収穫期は、数か月先でしたが、イエス様は、多くの新しい信仰者の収穫と獲得が始まろうとしていると言われたのです。それはイエス様のもとに来ようとしているサマリアの人々のことです。イエス様は、弟子たちとやり取りをしている時に、サマリアの人々が来て、イエス様を信じる人々が、続々と現れることが分かっておられたのではないでしょうか。37 節38 節「そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

種を蒔くとは、神の言葉を伝える人のことです。また刈り入れるとは、イエス様を信じるように導く人のことです。そして他の人々が労苦し、弟子たちがその労苦の実りに預かるとは、一つの意味は、旧約の預言者が語り、その刈り取りを弟子たちがするということです。またイエス様が苦しみの中で蒔くと、弟子たちが刈り取るということでもあります。そして私たちも、先にキリストの福音の種を蒔いた人がいて、後になって他の人が、その信仰の刈り取りをするということでもあります。そして神の言葉の種を蒔く人も、刈る人も、共に喜びます。39~41 節「さて、その町の多くのサマリア人は、『この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。」

イエス様を信じるケースは、主が直接来られた時、また人の証しを聞いた時、そして直接イエス様のところに行った時と、様々です。そして42 節「彼らは女に言った。『わたしたちが信じるは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。』

いつまでも、他の人をのみ頼りにせず、自分で直ちにイエス様に近づき、主イエス様の御声

を、聖書とご聖霊を通して聴き、その御旨を学び、ご聖霊の御力によって、その御業を行う者となれますように。

最後に、ラッセル・ムーアという方の「メッセージほど重要なメッセンジャー」という内容を受け留めます。「宗教の名のもとに起こったことを、全世代が見守りながら、『キリスト教は、本当に十字架けられたキリストに関する宗教なのだろうか』と問います。

教会に通っていない大学生や、教会を去って行った青年たちと、しばらく話をしてみると、なぜ彼らがキリストの抜けた『キリスト教』を拒んだかが分かります。残念なことに、彼らは、歪曲されたキリスト教から去るとともに、福音そのものからも去ってしまったのです。

シナイ山で与えられた御言葉や、ご聖霊の感動によって記された聖書だけが重要ではありません。メッセージの完全さも重要すが、メッセンジャーの完全さも重要す。小説家、また詩人でもあったウェンデル・ベリーは、『自分の言葉通りに実践する人々が失われたとき、教会とクリスチャンは崩壊する』と指摘しました。

自分の言葉通りに行動する人は、自分の外に権威と真理があることを認め、その真理に基づいた言葉を語り、実際にその言葉の通りに生きます。イエス様は、弟子たちが、互いに愛し合うとき、すべての人が、主の御言葉の真実さと完全さを見ると言われ、使徒パウロは、弟子たちに完全さがないとき、神様の御名が異邦人の間で汚されると警告しました。

私たちに対する神様の御心は、私たちが『御子のかたちと同じ姿に』なり、『多くの兄弟たちの中で御子が長子となる』ことなのです。」

神様に愛されている皆さん、イエス様の十字架と復活が、私の為と信じたなら救いを頂けま

す。そして霊的な糧である神様の御心を日々受け留め、実践に向かいます。そしてその業をご聖霊によって成し遂げて、言葉においても、行いにおいても、キリストを証しゆきませんか。

お祈り致します。

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