top of page

2022.2.27ヨハネによる福音書4 章43~54 節「イエス様の言葉に対する深い信仰」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2022年3月6日
  • 読了時間: 8分

牧師 松矢龍造


私たちが、世界のどこにいましても、父なる神様は私たちの祈りを聞いて、御業をなすことがお出来になります。神様はどこにでも遍在され、祈りは時間と空間を越えて、主のもとに届きます。ご聖霊は、私たちの祈りを、どこでも、父なる神様に届けてくださいます。そして主イエス様の御業を、私たちに適応してくださいます。

今日の御言葉には、主キリストには、空間を越えた支配力があることを示しています。すなわち、たとえ距離が離れていても、語られると癒しの御業が起きた奇跡から示されています。キリストと私たちの間に、御業が及ばないような距離はありません。ですから、今見えなくても、信じることが大切です。ヘブライの信徒への手紙11 章1 節「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」あるいはコリントの信徒への手紙二5 章7 節「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」

ユダヤとガリラヤの間にありますサマリア、このサマリアのシカルの井戸周辺のサマリア人は、イエス様を、父なる神様が選んだメシア・救い主と信じました。しかしガリラヤの故郷ナザレの多くの人々は、イエス様をメシア・救い主として受け入れないことを、イエス様は察知しておられました。昔から、預言者は、故郷では歓迎されないことをご存知でした。にもかかわらず、イエス様は、もう一度、ガリラヤのカナで、二回目の奇跡を行われます。主の憐れみは、なお北の暗黒の地ガリラヤを、なお、お見捨てになられないのです。

主イエス様の憐れみと愛の深さを思います。ガリラヤは、ヨルダン川上流とガリラヤ湖の西側の地域のことです。このガリラヤは、旧約時代から、アッシリアやバビロン帝国に真っ先に攻められた暗黒の地でした。

主イエス様は、人間の要求を、父なる神様との交わりへと高めてこられました。母親の要求には、水をぶどう酒に変える奇跡を通して、人々の心を神様に向けました。また律法者であったニコデモ対しては、真理とご聖霊による救いをもって、神様へと心を向けました。そしてサマリアの女性に関しては、生ける水すなわち御聖霊による生まれ変わりを通して、人々の心を神様に向けられました。

そして今日の御言葉では、ガリラヤの役人に関しては、死の危険からの救いを通して、人々の心を、父なる神様の方へ向けられました。それは主イエス様が、神の御子・救い主であることの現れでもありました。

45 節「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからであ

る。」ガリラヤの一部の人々だけは、エルサレムでイエス様の奇跡を見ていたので、エルサ

レム帰りの人々だけは、イエス様を歓迎しました。

するとイエス様は、以前、水を奇跡に変えられたカナに再び行かれました。そこにカファルナウムの役人が、カナにおられたイエス様の所に来ました。この役人は、ヘロデ王アンティパスの執事であるクーザであったかもしれないという説があります。またヘロデ王の乳兄弟マナエンであったかもしれないという説もあります。カファルナウムには、ローマ兵も駐在していました。いずれにしても、カファルナウムでヘロデ・アンティパスに仕えていた役人は、息子が病気で死にかかっていました。そしてイエス様が、ユダヤからガリラヤに来られたというので、カナにまでイエス様に会いに来ました。

そしてカナから、カファルナウムまで下って来て、病で死にかかっている息子を助けて欲しいと嘆願しに来たのです。48 節~51 節「イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた。役人は、『主よ、子どもが死なないうちに、おいでください』と言った。イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』」

ここで「生きる」と訳された原文の言葉は「治る」「助かる」「死なない」「永遠に生きる」という意味でもあります。主イエス様は、カナからカファルナウムの役人の家の息子のところに来て欲しいと言われたのに、このカナの場所で、離れたところから「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われたのです。

するとこの役人は、イエス様の言われた言葉を信じて帰っていきました。イエス様の言われた言葉だけを信じて、帰宅する。それはイエス様の言葉に対する深い信仰を示しています。ここで、この役人は、一目散に家に帰ったでしょうか。実はそうではないのです。

もう息子は癒されたと信じているので、時間をかけて帰る信頼ぶりであったことが分かります。

51 節52 節「ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、『きのうの午後一時に熱が下がりました』と言った。」僕たちと、この役人が出会ったのは翌日です。一目散にカナからカファルナウムまで帰ったなら、その日に到着しているはずです。ところが、翌日になっています。それは、イエス様が言われたことを信じ切っていましたから、

5

大急ぎでの旅などによる疲れを一掃するために、静かに一夜の宿をとったのでしょう。イエス様の言葉だけを信じて、離れたところで、神の御子イエス様の権威ある言葉を聴けば、それで十分。それは他の聖書箇所にありますローマの百人隊長の信仰にも通ずることです。マタイによる福音書8 章5~10 節「さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、『主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます』と言った。

そこでイエスは、『わたしが行って、いやしてあげよう』と言われた。すると、百人隊長は答えた。『主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。

わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に【行け】と言えば行きますし、他の一人に【来い】と言えば来ます。また、部下に【これをしろ】と言えば、そのとおりにします。』イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。

『はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。』」

ユダヤ人にも見られないような深い信仰が、カファルナウムの役人にも、百卒長にも見られました。ここにも、ユダヤ人にとっても、サマリア人にとっても、異邦人にとっても、イエス・キリスト、このお方が救い主であり、キリストは世界の救い主であることが現わされています。

この役人は、僕に息子が癒された時間を尋ねると、イエス様が、「あなたの息子は生きる」と言われた時刻と、まったく同じであると知りました。そして、彼も家族も、こぞって信じました。故郷ガリラヤで、深い信仰を示したのは、ユダヤ人でもなく、異邦人であったことは、皮肉でありましたが、それでこそ、全世界の救い主、私たち異邦人にとっても救い主であることが、明らかにされるということになりました。

それにしても、最初は、奇跡も、目で確認できる証拠も全くないのに、この役人は、主イエス様の言葉のみを信じて家に向かったのです。これこそ生きた信仰です。ともすると、イエス様の言葉と、今の世の現実と切り離して、聖書は聖書、この世はこの世と分けて考える弱さが私たちにあるのではないでしょうか。しかしこの役人も、百卒長も、神様の言葉と、この世のことを分けるのではなく、聖書の言葉、イエス様の言葉と、この世の現実と合わせて信じたのです。私たちは、どうでしょうか。

イエス様を信じるなら、信仰に従って、信頼して行動することが、深い信仰です。服従と信頼なくして、真の信仰はありえません。この後に、役人の家族は、イエス様に全てを捧げるようになったのではないでしょうか。

最後に、パク・ヨンソンという方の「神の人として日常を生きる」という内容を受け留めます。「聖書は、私たち信仰者にとって何が大切だと教えているでしょうか。それは、力ではありません。忠実、忍耐、柔和、謙遜、節制、感謝、人を自分より優れたものと考える、というようなことです。

ところが、私たちは、自分のプライドを満足させ、優越感を得るために、『信仰』と言う言葉を利用します。しかし、自分の地位をもっと高くしてほしい、自分の欲しいものを自分が求める時に与えて欲しいと、神様に求めることは実に愚かなことです。

信仰は、互いに優劣を競うようなものではなく、自分に任された仕事を忠実に行う態度に現れます。私は、『任された仕事』は、人生のすべてであると考えています。任された仕事とは、つまり、私たちの日常生活です。信仰生活とは、宗教的な仕事をすることではなく、神様が与えてくださった日常生活、つまり、すべての人と同じように与えられている日常の中で、クリスチャンとして応答し、行うことです。

神様は、大きなこと、誇らしいこと、誉れあることではなく、日常の些細なことを通して、私たちを整えていかれます。私たちの目には、些細なことに見えても、そこに大きな主のみこころが込められているのです。ですから、私たちは、すべての誘惑を退け、毎日ご飯を作ったり、洗濯をしたり、子どもと言い争ったり、ため息をついたり、泣いたり、テレビを見て笑ったりする、そのような状況の中で、神の人として生きるべきなのです。まさに、そのような日常の中で、神の人として忠実に歩み、感謝することが、祝福された人生です。」

神様に愛されている皆さん、主イエス様の御言葉を、日常生活の中で、日々頂き、日常の生活の中で、主に信頼して、感謝と愛と忠実な歩みを、ご聖霊の力を頂いて、生かされ生きてゆきませんか。お祈り致します。

コメント


この投稿へのコメントは利用できなくなりました。詳細はサイト所有者にお問い合わせください。

私たちの教会はカンバーランド長老キリスト教会に属するプロテスタントのキリスト教会です。

エホバの証人(ものみの塔)、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)、統一教会などとは一切関係ありません。

〒241-0825 横浜市旭区中希望が丘72-2  TEL 045-391-6038 ✉:kibogaokachurch@gmail.com

​お気軽にお問い合わせください。

  • Facebook
  • YouTube

© 2021 Kibogaoka Church, Cumberland Presbyterian Church

bottom of page