top of page

2022.2.27NGW マルコよる福音書10 章52 節

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2022年3月6日
  • 読了時間: 5分

『イエス様に叫び素直に願い求める信仰』

「そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、

すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」


牧師 松矢龍造


皆さんは、神様から「何をしてほしいのか」と言われたら、素直に信じて願い求めます

か。私なら、家族や友人を救って欲しいのです。悪霊の働きがよく見えるようになりたい

です。神様の御心に従って行く道が見えるようになりたいです。教会が進むべき道が見え

るようになりたいのです。そんな願いをしたいです。そして願う時、主の御心なら、必ず

与えてくださると信じて願う必要があります。

けれど、時に身勝手な願をしてみたり、与えられないと疑って求めなかったりすること

があるのではないでしょうか。今日の御言葉には、イエス様から「何をしてほしいのか

と」と言われて、素直に、信じて、叫び、願い求めた人の事が出てきます。

イエス様とお弟子たち一行は、エリコの町に着きました。エリコの町は、エルサレムの都から25 ㎞離れたと所にあります。このエリコの町は、一度破壊され、荒れ野のようになりました。しかしこのユダの荒れ野に、ヘロデ大王によって、再建されました。町の様子は、大衆的な行楽地で、ヨルダン川の近くで、裕福な町となっていました。

エルサレムでは、過ぎ越しの祭りの為に、周辺から多くの人が旅をして来ますが、このエリコとエルサレムの間も、エルサレムに向かう多くの人々が沿道を埋めていました。イエス様が、弟子たちと大勢の群衆と一緒に、エリコの町を出て行こうとされた時、ティマイの子で、バルティマイという目の不自由で、物乞いをしている人が、道端に座っていました。

バルティマイと言う名前は、「息子」という意味です。当時、目が見えないということは、罪の故に神様から呪われていると考えられていました。また裕福な町エリコで、物乞いをしていることは、相当惨めなことでした。加えて、当時のほとんどの職業は、肉体労働であり、病気や・ハンディキャップ・障害を負った人には、仕事が残されていませんでした。ですから、このバルティマイは、名前が本来「息子」という意味のように大切にされるはずなのに、社会から軽蔑され、拒まれ、小さな者と思われていました。

ところが、このバルティマイは、ナザレのイエスだと、人々言っているのが聞こえて、叫んで「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めました。当時、ユダヤ民族は、救い主・メシアが、ダビデ王の家系から生まれ出ると期待していました。それで、救い主・メシアは、ダビデの子と呼ばれていました。

ですから、この時、バルティマイは、イエス様のことを、ダビデの子と呼んだという事実は、彼がイエス様を・救い主メシアと信じて認めていたことを示しています。

多くの人々は、バルティマイに対して、叱りつけて黙らせようとしました。しかしバルティマイは、ますます「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。するとイエス様は立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われました。人々は、この目が見えない盲人を呼んで言いました。「安心しなさい。立ちなさい。イエス様がお呼びだ。」

この目が不自由な人は、上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエス様のところに来ました。この時のバルティマイの心には、「この方なら、わたしを憐れみ救ってくださる」と確信していたでしょう。なぜなら、上着を脱ぎ捨てたからです。もし疑っていたら、物乞いにとって、もっとも大切であった、

夜の寒さを防ぐための上着を脱ぎ捨てることはしなかたでしょう。しかも躍り上がってイエス様のところに来たのですから、必ずこの救い主・メシアが、私を憐れみ助けてくださると信じていることを示しています。

イエス様は彼に対して「何をしてほしいのか」と聞かれました。するとこの目が不自由な人は「私の先生・ラボニ、目が見えるようになりたいのです」と言いました。そこで、イエス様は、「行きなさい。あなたの信仰が、あなたを救った」と言われました。

この時、イエス様が、その目が不自由な人を癒す為に、手を差し伸べることによって、この人は呪われている人でもなく、軽蔑され、世から拒まれるような小さな人ではない。神様から愛されている、神様の子どもの一人であることを証明されたのです。他の福音書は、「この人が、生まれつき目が見えないことは、この人や両親の罪の為ではなく、神様の栄光が表される為である」と言われています。

そしてこの目の不自由な人は、直ぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエス様に従いました。イエス様は、これまで、霊的に目が見えない多くの人々見て来ました。それがユダヤ教の宗教指導者たちであったり、自分の家族であったり、群衆に出会って来ました。肉体の目が見えるのに、霊的な目が見えない人々した。

しかし肉体の目が見えないバルティマイですが、イエス様についての真理が、霊的に見えていました。まさに肉体の目では見ることが出来なくても、イエス様が霊的に見えていて、信じることが出来ていました。よく神様が見えたなら信じるという人がいますが、信仰とは、もともと、肉体には目に見えない、永遠の神様を信じることです。

私たちも、この目が不自由であったバルティマイように、遠慮したり、疑ったりせず、大胆にイエス様に、叫び、訴えることが重要です。子どものように素直に、信じて、願い求めることが大切です。そして神の御子イエス様には、御心なら、出来ると信じて願い求めることが重要です。たとえ、世が軽蔑し、拒むような小さな者であっても、愛し、慈しみ、憐れんで迎えてくださる神の御子・救い主なるイエス様です。

そして信じて救いを頂いたなら、イエス様のように、バルティマイのように、ご聖霊の助けを頂いて、神様に従って行くことが出来ますように。あなたも、この朝、イエス様から「何をしてほしいのか」と問われているのではないでしょうか。あなたも「救い主イエス様、見えるようになりたいのです」と素直に、大胆に、信じて願い求めて行きませんか。お祈り致します。

コメント


この投稿へのコメントは利用できなくなりました。詳細はサイト所有者にお問い合わせください。

私たちの教会はカンバーランド長老キリスト教会に属するプロテスタントのキリスト教会です。

エホバの証人(ものみの塔)、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)、統一教会などとは一切関係ありません。

〒241-0825 横浜市旭区中希望が丘72-2  TEL 045-391-6038 ✉:kibogaokachurch@gmail.com

​お気軽にお問い合わせください。

  • Facebook
  • YouTube

© 2021 Kibogaoka Church, Cumberland Presbyterian Church

bottom of page