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2022.2.2民数記28 章1 節~29 章39 節「祝祭日と奉納物」

牧師 松矢龍造


教会歴は、信仰の世俗化を防止し、忘恩に陥ることがないように定められています。また献げものは、感謝と献身のしるしです。毎週の日曜日の主の日の礼拝、イースター、ペンテコステ、クリスマスという三大際があります。三位一体の主に基づいて、教会歴が編纂されています。これらの祝祭日のことは、現代だけでなく、旧約時代から始められていました。

イスラエルの民は、40 年という荒れ野での旅の生活も、ようやく終わりが近づいてきました。そしてカナンの地での安住の生活が、まのあたりに迫ってきていました。そこで、主なる神様は、定期的に祝祭日と献げ物に関して強調を置かれています。

神様の御前における究極的な供え物は、十字架でいけにえとして屠られたキリストです。このキリストへの信仰によって救われたクリスチャンは、これらの旧約時代の規定に拘束されてはいません。しかし旧約聖書の規定を学ぶことによって、信仰的な教訓と、大切な神様への感謝と献身を深く受け留める機会となります。

日毎の献げ物、安息日毎の献げ物、新しい年の新月の献げ物、過ぎ越しの祭り、またの名を除酵祭の献げ物、五旬節の名を七週の祭りの献げ物、第七の月の献げ物、贖罪日や仮庵の祭りの献げ物。

これらの公の礼拝式の他に、個人的な信仰に基づく誓願、自発的な供え物、神様との和解を感謝する奉献式などの大切さが付記されます。

それでは、これらの祝祭日や奉献の意味や意図を、さらに受け留めてまいりましょう。先ず、主が定められた時に、祝祭日と奉納物が設けられた意図から始めましょう。

第一に、祝祭日を守り、気前よく捧げ物をすることで、神様の御業に感謝の意を表明することとなります。神様の創造の御業、また救いと贖いの御業を覚えて、感謝を捧げます。

第二に、祝祭日と奉納物をするためには、時間を要し、礼拝と感謝のために、心を整える機会が与えられます。

第三に、祝祭日と奉納物を通して、人々の気持ちと身体が、新たにされました。

第四に、個々人と神様の約束を再確認するための時間を持つ事が出ました。

第五に、神様の聖さを深く理解するように導かれました。

第六に、主への全焼のいけにえを捧げることは、神様に価値ある物を捧げるという意味であり、主に価値ある物を捧げることは、神様への献身を表すことでした。

第七に、これらの祝祭日や奉献を通して、神様が、その民の間に、絶えず臨在されていることが示されました。

もし私たちが、人生において疲れを覚えているなら、あるいは神様から離れていると感じるなら、霊的な祝祭日を持つことが疎かになっていないでしょうか。また奉献において、ふさわしい応答がなされているでしょうか。自己吟味が必要です。いくつかの聖句を確認します。

ネヘミヤ記8 章9~11 節「総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。『今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。』民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。『行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。』レビ人も民全員を静かにさせた。『静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。』」

マラキ書3 章8~10 節「人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながら、どのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と、献納物においてである。あなたたちは、甚だしく呪われる。あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと、万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために、天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。」

コリントの信徒への手紙二9 章6~7 節「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」

しかし私たちにとって、最高の捧げ物は、もちろん、私たち自身を神様に捧げることです。神様が最も喜ばれるものは、全てを捧げてくださった主イエス様の犠牲の愛に応えて、私たち自身と生活のすべてを、聖い生きた供え物とすることです。ローマの信徒への手紙12 章1 節「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

次に、ユダヤ三大祭に関して、受け留めましょう。

第一に、除酵祭あるいは、過ぎ越しの祭りのことです。これは、イスラエルの民が、エジプトで奴隷であった時、神様はエジプトに対して10 の災いを持って罰して、出エジプトさせて下さいました。その際に、小羊の血を門と鴨居に塗ると、主の裁きを過ぎ越して頂きました。そして紅海の海の奇跡を持って、追って来るエジプト軍から救い出されました。

エジプトを脱出する際には、急を要してパンを発酵させている時間がありませんでした。それで酵母すなわちイースト菌をもって膨らませることが出来なかったことから、神様に感謝することを思い起こす為に、酵母を除いたパンを食べて、神様への感謝を捧げる祭りでした。

第二に、七週の祭りは、収穫感謝の祭りでした。初穂を刈り入れてから七週を数えての祭り。また出エジプトしたから、七週目に、シナイ山で律法を頂いた記念も加わりました。そして新約時代は、イエス様が復活されてから50 日目に、ご聖霊の降臨がなされたことを感謝し祝う日となっています。

第三に、仮庵の祭りは、荒れ野の40 年間、天幕で過ごした旅であったことを思い起こす為に、仮庵を立てます。そして荒れ野の時代に守られ、食べ物や水や着る物が与えられたことを思い起こす祭でした。

加えて、三大節だけでなく、常に忘れてはならないのは、宥めの供え物です。私たち人類は、神様の御前に原罪を持ち、また罪過の罪があります。そのままでは、神様の怒りと裁きの対象です。

しかし宥めの供え物として、旧約時代は、動物犠牲がなされました。それは不完全であり、何度も捧げなければなりませんでした。

これらの動物の捧げ物は、宥めの供え物である神の御子イエス様のことを指し示す型でした。原文では、「静める」という意味や、燃やして「仲裁」あるいは「仲介」という意味でもあります。

神様と人との間にある私たちの人類の罪に対する神様の怒りを静める方。あるいは神様と私たち人間との仲裁、仲介者としてのイエス様を指し示すものです。

ヘブライの信徒への手紙9 章11~14 節「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。

なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないもの

として神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」

わたしたちは、たとえ全世界を得たとしても、真の命と魂を損じたら何になるでしょうか。主イエス様こそ、唯一私たちに真の命と魂を与えてくださるお方です。このお方にして、どれだけ感謝しても、したりないです。最期に、イ・ジェギという方の「あなたの『USB』は何ですか」を受け留めます。「最近、私は『USB』というパソコンの記憶装置をなくすという大失敗をやらかしました。USB は、指先ほどの大きさですが、私にとっては、非常に大切なものでした。ほとんどの教の原稿と、これまで書いてきた、ほとんどの文章が、その中にあったからです。

論文や寄稿文、教会の働きのマニュアルと事務文章、写真もその小さなUSB に、ほとんど入っていたのに、その大切なものを一瞬にして、なくしてしまったのです。考えてみれば、それは私の不注意によるものでした。ある人は、資料をバックアップしておくなどの備えをしていますが、わたしはそのような備えもしていませんでした。

人には、それぞれ大切なものがあります。また、大切な価値観があります。たとえば、家庭、純潔、信仰、教会、人格、心のようなものです。ほかの人の目には、やりすぎに見えたとしても、それを守るために万全を帰して二重、三重の措置をしておかなければなりません。今は大丈夫だと安心し、『まさか』と油断して管理を疎かにしてはいけません。

私たちの魂は、私たちの人生の『USB』と言えるかもしれません。その中に、人生の全てがあります。それをいつも確認して守りましょう。それだけの価値があります。大切なものを失ってから後悔することのないように、細心の注意を払って、自分の魂を、そして信仰を守りましょう。」

神様に愛されている皆さん、私たち魂と真の命を、キリストにあって守って頂き、その感謝を定期的に捧げ、主の犠牲に対して、私たちも、感謝と献身を持って、応答してゆきませんか。

お祈り致します。

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