2022.2.6ヨハネによる福音書4 章1~26 節「罪の赦しと魂への満たしを求めて」
- CPC K
- 2022年2月4日
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牧師 松矢龍造
起
古今東西、老若男女が求めているのは、魂の満たしと、罪の赦しではないでしょうか。古代の著名な神学者であるアウグスティヌスはこのように告白しました。「ああ主よ、あなたは、ご自分に向くようにと、私たちをお造りになりました。それゆえ、私たちの心は、あなたに憩うまでは、安らぎを得ません。」
かつて年配の男性が、哲学を追求して来ましたが、魂に安らぎを得ませんでした。ところがキリストよって魂と霊が満たされると知り、ようやく本当の憩いに行き着くことが出来ましたと、信仰告白をして、洗礼をお受けになられました。
私も、高校生の時、心の核に、神様以外のものを入れても決して満たされることはないと、クリスチャンの高校の教師から聞かされて、求道するきっかけとなりました。
承
イエス様が、バプテスマのヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられたということが、ファリサイ派の人々の耳に入りました。実際に、洗礼を授けていたのは、イエス様ご自身ではなく、弟子たちでしたが。
イエス様は、十字架につけられる時は、まだ満ちていないと、ファリサイ派の人々と対決することを避けて、ユダヤを去り、ガリラヤに行かれました。その際に、ユダヤからガリラヤを行き帰す通常のルートは、サマリア経由でした。しかしユダヤ人たちは、サマリアを経由すことを、一般的に好みませんでした。サマリア人と、交際しないからでした。
サマリア人のルーツは、かつて北イスラエルが、アッシリア帝国によって滅ぼされ、多くの民が捕囚としてアッシリアに連れらされました。その後、残ったイスラエル人は、アッシリアから来た人や、カナンから来た異邦人たちと結婚し、混血児が多くサマリアに存在することになりました。そしてエルサレムにある神殿とは別に、神殿を建立し、別の祭司を選び、律法を独自に解釈しました。
そして首都をサマリアとして、サマリア周辺に暮らしていたことから、サマリア人として知られるようになりました。ユダヤで暮らすユダヤ人たちは、サマリア人は、混血人であり、イスラエルの神に忠実ではないと考え、彼らを嫌悪して、口もききませんでした。「交際しない」と訳された原文の言葉は、「付き合わない」「皿を共有しない」という意味でもあります。食事も共にしない犬猿の中でした。
転
ところが、イエス様は、あえてサマリアに行かれたのです。ユダヤ人から、神からの救いの対象外とされていたサマリア人が、後にイエス様を受け入れます。このことを通して、世の救い主としての御子イエス様の普遍性が示されます。
イエス様は、シカルという別名シケムにある、ヤコブの井戸のそばに座られました。時は、正午ごろのことでした。そこにサマリア人の女性が水をくみに来られました。人々は、正午ごろは、普通暑いので、涼しい朝晩に、井戸に水を汲みに来るのが、ほとんどでした。
すると、このサマリアの女性は、人目を避けて、暑い日中に水をくみに来たという、わけありの女性だったことが分かります。イエス様は、その女性に「水を飲ませてください」と言われました。主イエス様は、彼女に頼み事をして、その興味と好奇心をかき立てられました。この時、弟子たちは、食べ物を買うために町に行っていました。
するとサマリア人の女性が、イエス様に言いました。9 節「『ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」
イエス様は、続いて10 節「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」と言われました。
イエス様は、もしこの女性が、イエス様ご自身を、救い主・メシアと知っていたなら、この女性の方から、魂が渇くことない、霊的な水を飲ませて欲しいと頼んだことだろうということです。人は、本来、誰でも、水を渇望するように、心の核の魂は、神様を渇望します。
旧約聖書、詩編42 編2節3 節「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあな
たを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。」
さらにイザヤ書55 章1 節「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たな
い者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。」
エレミヤ書2 章13 節「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを
捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできない、こわれた水溜めを。」神様以外に、魂の渇きを求めても、壊れた水溜のように、水を貯めることが出来ず、枯れてしまいます。
11~15 節「女は言った。『主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。』イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』女は言った。『主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。』
この女性の、イエス様に対する見方が変化してゆきます。最初は、「ユダヤ人」。次に「主よ」。これは「先生」に近い呼び名です。さらに「先祖ヤコブよりも偉い。」次に「預言者」そして「メシア・キリスト」となってゆきます。
16~19 節「イエスが、『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい』と言われると、女は答えて、『わたしには夫はいません』と言った。イエスは言われた。『【夫はいません】とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。』女は言った。『主よ、あなたは預言者だとお見受けします。』」
女性には、五人の夫がいました。病気等で死別したのか。姦淫したのか。そして今は、同棲していて、正式の夫ではない。だから人目を避けて、昼間に水を汲みに来ていたのです。いずれにしても、この女性は、罪の赦しと、魂の満たしを求めていたのです。
女性は、矛先を変えるかのように、礼拝すべき場所に、話を移そうとしました。しかしイエス様は、それを知っておられながら、むしろ礼拝場所の話を、あえてして、女性の魂の深みの問題に入るようにされてゆきます。
20~26 節「『わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。』イエスは言われた。『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。』
女が言った。『わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。』イエスは言われた。『それは、あなたと話をしているこのわたしである。』」
神様は、霊です。それは一つの場所に制限される存在ではないということです。そしてまことの礼拝は、場所ではなく、神様の霊に導かれることが重要であると言われたのです。
さらに霊と真理をもって礼拝をするとは、神的な側面と、人的な側面の両方があります。先ず神的な側面とは、霊とは、ご聖霊のことです。また真理とは、イエス・キリストのことです。ですから、霊と真理をもって礼拝をするとは、ご聖霊とキリストの助けを頂いてこそ、本物の礼拝となるということです。
次に人的な側面とは、霊とは私たち人間の側が、謙遜の霊の賜物を頂いて、へりくだることです。そして真理とは、私たちの真心と真実をもって、神様に礼拝を捧げるということです。この神的側面と、人的な側面の両方によって、霊と真理によって、礼拝を捧げることが真に可能となります。あなたも、私も、御聖霊とキリストの助けを頂き、へりくだりと真実をもって、神様に礼拝を捧げることが出来ますように。
結
主イエス様は、求める者に、世のものでは与える事の出来ない、真に魂を潤し満たしてくださいます。神様は、真の命と霊の泉です。詩編36 編9 節10 節「あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きを癒す。命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」
ゼカリア書13 章1 節「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清
める一つの泉が開かれる。」
自分の人生は、失敗であったという真実な告白から、このサマリア人の女性の救いは出発します。私たちも、自分の罪の告白と、悔い改めから、キリスト教と聖書の救いは始まります。そしてイエス様が、私の救い主、魂の癒し主、十字架と復活による救い主と信じることから、罪の赦しと永遠の命と、真の人生が出発してゆきます。ならば、このイエス様による魂の満たしを、隣人に分かち合いませんか。
最後に、トマス・ア・ケンピスの「イエス様と共に歩む弟子」を受け留めます。「イエス様の弟子は、イエス様と共に歩み、その方の足跡をたどる人です。イエス様と共に歩む方法を知っていることは、大きな才能であり、イエス様にすがる方法を知っていることは、大きな知恵です。平和をもたらす、謙遜な弟子になってください。
そうすれば、イエス様が共におられるでしょう。敬虔で信心深い人生を歩む弟子になってください。そうすれば、イエス様が、最後まで、あなたと共に歩まれるでしょう。すべての大切なものの中で、イエス様だけを特別に愛してください。」
お祈り致します。

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