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2022.2.9民数記30 章1~17 節「誓願や物断ちの誓い」

牧師 松矢龍造


皆さんは、誓願や、物断ちの誓いをしたことがあるでしょうか。誓願や誓いとは、通常、何かが叶うなら、そのことが叶えられたなら、何かをささげます。あるいは、叶うなら、ある物を、物断ちをしますということです。

神様に対して誓願を掛けたり、また物断ちをしたりして神様を拝むようなことは、昔から、どこの国でも行われたものです。

普通、誓願は、苦境に陥った時、神様の助けを要する場合に、立願します。また神様の恩寵に対する感謝の表現にも、誓願がなされました。誓願は、願いがかなった時に、何を捧げるかを明確にして誓うことです。誓願は、積極に何かをすることであるのに対して、物たちは、積極的に、何かをしないということです。

律法では、誓いを強制してはいません。この民数記の前には、男性に対する誓願のことを扱っている聖書箇所がありますが、この民数記の30 章では、女性に対する誓願の規定が展開されています。誓いの一般原則は、レビ記27 章や民数記6 章には、ナジル人に関する誓願があります。申命記23 章22~24 節で、一般原則を確認しておきましょう。「あなたの神、主に誓願を立てる場合は、遅らせることなく、それを果たしなさい。あなたの神、主は必ずそれをあなたに求め、あなたの罪とされるからである。誓願を中止した場合は、罪を負わない。唇に出したことはそれを守り、口で約束した誓願は、あなたの神、主に誓願したとおりに実行しなさい。」

古代では、契約書がない場合、人の制約した言葉が、署名と同じ拘束力を持っていました。そして通常、一度、誓願を立てると、取り消すことが出来ませんでした。マタイによる福音書5 章33節「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。」

今日の民数記30 章では、父親と、父親の家にいる若い娘の間に関して、また夫と妻の間に関して、主が命じられた誓願や、物断ちの誓いに関することが展開されています。

第一に、人が、主に対して、誓願を立てるか、あるいは物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってなりません。古代の例では、子どもが与えられなかったハンナという女性が、誓願をした場合がありました。サムエル記上1 章10 節11 節「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして、誓いを立てて言った。『万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。』」

主はハンナの願いを聞き入れ、預言者サムエルとなる子を、ハンナの胎に宿らせ、誕生するとハンナと夫は、その子を、祭司エリのもとに捧げました。その後に、沢山の子どもに恵まれるといった例がありました。

第二に、娘や、妻が主に誓願か、物断ちの誓いをするなら、父親か、あるいは夫が、その誓いをした日のみ、吟味して取り消すことが出来ました。

これは、父母に従う、あるいは妻は夫に従うという、律法における家庭の秩序が優先されることを示しています。女性は、自分が立てた誓願、あるいは物断ちの誓いに対しても、父親や夫に仕えることを優先させなければなりませんでした。この父親や夫の吟味する内容として、父親や夫の礼拝生活が崩れてしまわないようにすること。また家庭全体の生活を大きな危険にさらさないこと。そして健康をそこなうほどの物断ちの誓いをしないこと。これらに抵触するなら、必ずしも聖書的ではありません。

第三に、不必要な誓願や、物断ちの誓いをしてはなりません。士師記にあります、エフタの例は、不必要なケースです。戦いに勝利させて下さるなら、家に帰って来て、出会った最初の人物を捧げるという誓願でした。それが自分の一人娘であったという例です。士師記11 章30~40 節「エフタは主に誓いを立てて言った。『もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。』こうしてエフタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手に、お渡しになった。彼はアロエルからミニトに至るまでの二十の町とアベル・ケラミムに至るまでのアンモン人を徹底的に撃ったので、アンモン人はイスラエルの人々に屈服した。エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。彼はその娘を見ると、衣を引き裂いて言った。

『ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。彼女は言った。『父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから。』彼女は更に言った。『わたしにこうさせていただきたいのです。二か月の間、わたしを自由にしてください。わたしは友達と共に出かけて山々をさまよい、わたしが処女のままであることを泣き悲しみたいのです。』彼は『行くがよい』と言って、娘を二か月の間去らせた。彼女は友達と共に出かけ、山々で、処女のままであることを泣き悲しんだ。

二か月が過ぎ、彼女が父のもとに帰って来ると、エフタは立てた誓いどおりに娘をささげた。彼女は男を知ることがなかったので、イスラエルに次のようなしきたりができた。来る年も来る年も、年に四日間、イスラエルの娘たちは、ギレアドの人エフタの娘の死を悼んで家を出るのである。」

一説に、間違って立てた誓願は、素直な悔い改めの心をもって、神様の御前に、破棄すべきであるという人がいます。この民数記30 章では、その誓ったその日一日のみ、取り消しが有効であるとされています。そしてその誓いを立てた日に何も制限せず、後の日になって破棄するなら、夫が妻の責任を負うとあります。男性が、女性の立てた誓願の責任を負うのです。イエス様も誓願に対して、慎重になるように言われています。マタイによる福音書5 章34~37節「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

第四に、やもめ、すなわち未亡人や、離婚された女性の場合、父親や夫による制約から離れたところで成立しているので、誰も破棄することが出来ません。箴言20 章25 節「聖別されたものとしよう、と軽々しく言い、後にその誓いを思い直せば罠となる。」

第五に、現在的には、神様の御心にかなった誓いは、存在します。それは神様が許されているものです。結婚の誓約、洗礼の誓約、牧師の誓約、長老や執事の誓約なのです。

第六に、広い意味での誓いは、神様の御心に聴き従う、日々の信仰生活が、そのまま物断ちであり、祈りであるということです。主の御心に日々聴き従う、それが誓約や物断ちに誓いに、ふさわしいです。

最後に、キム・チャングンという方の「生涯にわたってもとめられる敬虔」という内容を受け留めます。「エジプトで、400 年以上もの間、奴隷として生きてきたイスラエル民には、エジプト式の考え方と、奴隷根性が根深く残っていました。神様は、彼らの内面を訓練するために、荒れ野の道へと導かれました。

ある聖書学者は、『イスラエルの民は、エジプトから脱出するのに1日を要したが、彼らの心からエジプトを取り出すのには、40 年という歳月が必要だった』と解説しています。私たちは、キリストの福音を信じて救われ、神の子となりましたが、キリストの満ち満ちた身丈に達したわけではありません。救いは、イエス・キリストを受け入れた瞬間、なしとげられます。しかし、完全なクリスチャンになるためには、一生かかるのです。

イスラエルの民に、奴隷根性が根深く残っていたように、私たちにも、この世的な考え方と、救われる前の罪の習性が残っています。神様は、それをご存知なので、私たちを、厳しい荒れ野へと導かれます。神様は、私たちを愛しておられますが、私たちを現在の姿のまま、放っておかれません。親が愛する子どもを訓戒して正すように、神様は、私たちを訓練し、ご自分が願われる人格へと造り上げていかれます。私たちの古い自分の考え方や習慣を捨て、神様の聖なる民となるように導いてくださるのです。」

神様に愛されている皆さん、誓願や、物断ちの誓いを、むやみにしてはなりません。むしろ日々、神様が神の言葉なる聖書を通して、ご聖霊によって語られる言葉を、自分のものとして聴き、これにご聖霊の力を頂いて聴き従う。それが誓願や、物断ちの誓いにふさわしいのではないでしょう。神様が言われることに「然り」。言われないことには、「否」として、神様に信頼して、お従いする日々となりますように。ご聖霊の助けを求め、その導きに従って行きませんか。

お祈り致します。

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