2022.3.13ヨハネによる福音書5 章19~30 節「神の御子イエス様の裁きと命の権威」
- CPC K
- 2022年3月20日
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牧師 松矢龍造
起
旧約聖書で預言された救い主・メシアのしるしは、どのようなものでしょうか。少なくても、旧約聖書では、メシア・救い主のしるしを三つ上げています。
一つは、死人を生き返らせる権威を持つ方であるということです。申命記32 章39 節「しかし見よ、わたしこそ、わたしこそそれである。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わが手を逃れうる者は、一人もない。」
二つ目に、神の審判と裁きを行う権威を持つ方です。サムエル上2 章6 節「主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げてくださる。」
三つ目に、目や耳、足や口が不自由な人を癒す権威を持ったお方であるということです。イザヤ書35 章5 節6 節「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。」
承
ヨハネによる福音書の前段落では、神の御子イエス様が、父なる神様を「父」と呼んだことから、ユダヤ人たちの反感を買い、ユダヤ人たちが、イエス様を殺害しようとする思いを抱くようになったとありました。イエス様を神の御子と信じない者にとっては、イエス様が父なる神様を「父」と呼ぶのは、冒涜にあたるとしたのです。
イエス様は、そのことを受けて、今日の御言葉において、御自身と父なる神様との一体的な関係について述べられています。
イエス様は、よくご自身のことを「人の子」と言われました。その意味は、一つには、神でありながら人となられたということです。また二つ目に、霊である神が肉体をとって現れた神であるということです。そして三つ目に、天と地との仲介者であるということです。
転
それでは、19 節20 節をもう一度「そこで、イエスは彼らに言われた。『はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることを、すべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。』」
さらに30 節も同じようなことを言われています。「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
父なる神様と、御子なる神様の、意志と行いにおける緊密な関係を示しておられます。かつてイエス様が12 歳の時、神殿に行かれた際に、神殿を「父の家」と言われていました。イエス様は、子どもの頃から、自己意識として、父なる神様の御子であると自覚されていました。そして父なる神様の御心を行う者であることで、父なる神様と御子の一体的な関係を受け留めてこられました。21 節22 節「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切、子に任せておられる。」さらに26節27 節にもこのようにあります。「父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。」
ここでも、命を与えることと、裁くことにおいて、父なる神と御子との一体性が語られています。そして御子の命を与える権能も、さばく権能も、共に父なる神様に由来して、御子に一切を任せておられます。23 節「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。」御子なるイエス様を退けて、父なる神様を敬うことは出来ません。父なる神様を敬うなら、御子イエス様を敬うでしょう。逆に御子イエス様を敬わないなら、御子を遣わされた父なる神様も敬わないことになります。24 節「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」ヨハネによる福音書において「聞く者」と出てくる時は、単にイエス様の言葉を聞くだけでなく、イエス様を受け入れ、信じ、従うことを意味しています。また永遠の命とは、イエス・キリストを救い主として受け入れる時に始まります。そして御子は、御自身を信じ受け入れる者に、霊の命を与えます。
25 節「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」ここで「生きる」と訳された言葉は、三つの意味で生きることを意味しています。一つは、神様との関係において霊的に生きるということです。二つ目に、神様の栄光を表し、御心を行い、神様を讃美し、神様と人を愛する生活をすることです。三つ目に、永遠の命を頂いて、永遠に生きるということです。
創造主なる神様は、命の源です。また私たちの内にある命は、神様からの賜物です。そして永遠の命は、御子の内にあり、御子イエス様を信じる者の内にあります。詩編36 章10 節「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」28 節29 節「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」ここで、死者は、復活して、ある者は、イエス様の御言葉を聴き、信じて受け入れ、従って永遠の命を受けます。また悪を行い、悔い改めず、御子を信じない者は、復活して裁きを受けま
す。私たち人類は、終末の時に、死者の復活と、全人類に対するさばきを、驚くべきこととして見るようになるでしょう。
テサロニケの信徒への手紙一4 章13~18 節「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。
すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。」
父なる神様と、不可分につながっておられる救い主イエス様です。また御子なるイエス様の権威は、父なる神様から委ねられました。そして御子なるイエス様は、イエス様を信じる者と教会に、権能を委ねておられます。それは、一つに、神の御子イエス様による救い、すなわち福音を宣べ伝える宣教の権能です。そしてもう一つは、御子を信じ受け入れた者に、洗礼と聖餐式に預からせて、「子よ、あなたの罪はイエス様によって赦された」と宣言する権能です。
そしてイエス様を受け入れ、信じ、従う者たちは、第一に、父なる神様をあがめ、御父の望まれるように生きます。
第二に、イエス様なら、どのようになされるだろかと日々思いつつ、生き
ます。第三に、ご聖霊の望みに生かされ、永遠に生きる為によみがえる希望を、世に証しします。
結
最後に、パク・ハンスという方の「罪の深刻さを認識しましょう」を受け留めます。「ハインリッヒは、アメリカの旅行保険会社の損失危機管理部署に勤務していた時、産業災害の事例に一定の法則があることを発見しました。重大な事故によって、死者が一人発生した場合、その前に同じ問題で軽症者29 人が発生しており、その前に危うく怪我しそうになった300 人ほどがいたということです。
これを『ハインリッヒの法則』、または『1:29:300 の法則』と言います。エレベーターから変な音がしたとき、修理しないで放置しておけば、その次にドアが開かない事故が起こります。それでも修理せずに応急処置のみで済ませて使用し続ければ、最後には、エレベーター落下という大事故が起きてしまいます。
『変な音がする』のは300 回の軽い事故に該当し、『扉が開かない』のは29 回の大きな事故に該当し、『落下』は死に該当します。この原理は、罪にも同じように適応できます。300 回の小さな罪、29 回の大きな罪を犯しても、神様の警告を無視し続ければ、最終的には死に至るのです。
罪は妥協してはならず、血を流してでも戦わなければなりません。罪を軽く考えては勝てません。罪との戦いは、必死に戦っても勝てるか分からないほど、大変なのです。この世で、本性に従って肉体の快楽を追い求めて地獄に行くか、どんなに大変でも、敬虔と信心深い道を追い求めて御国へ行くかは、自分の選択であり、責任です。罪を犯して、つまずいてしまうこともあるでしょう。しかし、二度同じ罪で、つまずくのは愚かであり、三度つまずくなら、それは悪です。」
神様に愛されている皆さん、イエス様は、さばきと命の権威を、父なる神様から任されています。そして私たちは、自分の罪を悔い改めて、主に立ち返り、主に聴き従う歩みを選ぶでしょうか。それとも、イエス様を退け、罪を悔い改めず、警告を何度も無視して、さばきと永遠の滅びを選ぶでしょうか。「主よ憐れみたまえ。ご聖霊の御助けを祈り求めます。」
お祈り致します。

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