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  • 執筆者の写真CPC K

2022.3.16希望の祈祷会 民数記34 章1~29 節「一人ひとりに委ねられた領域」

それぞれの国に境があるように、私たち一人ひとりにも、主から委ねられた境があります。私たちの体力も、知恵も、働きも、領域も、主によって規定されています。国土に関しては、使徒言行録17 章26 節に、境界が主に定められているとあります。「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。」

しかしどの国の領土も、私たちの個人の持ち物であっても、全ての土地と持ち物の、真の所有者は、創造主であり、主権者である神様のものです。どの国も、個人も皆、真の所有者なる神様から委ねられているずきません。そして主から委ねられたものを、神様の栄光と、神様の御心に沿って用いて行くことが、被造物の本分です。

コヘレトの言葉12 章13 節14 節「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも、一切の業を、隠れたこともすべて、裁きの座に引き出されるであろう。」

今日の御言葉には、イスラエルの嗣業の土地に関して記されています。すでにヨルダン川の東側は、ルベン族とガド族が受けており、後にマナセの部族が受けます。けれど約束の地であるカナンは、ヨルダン川の西側のみのことを言っています。

この約束の地であるカナンは、日本の四国位の大きさです。海抜で一番高いのはヘルモン山であり約2743mです。また海抜で最も低いのは死海でありマイナス約400mです。アジアとアフリカとヨーロッパの三大大陸の接触する、世界で唯一の場所です。そしてこの地から、救い主イエス様が誕生します。

もともとカナンの土地を、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてイスラエルに嗣業として受け継ぐ土地とされた理由がありました。それは、これからカナンの土地を受け継ぐにあたって、とても大切なことでした。

イスラエルに、カナンの土地が、嗣業として受け継ぐことは、第一に、主なる神様の約束の成就でした。申命記32 章7~10 節「遠い昔の日々を思い起こし、代々の年を顧みよ。あなたの父に問えば、告げてくれるだろう。長老に尋ねれば、話してくれるだろう。いと高き神が国々に嗣業の土地を分け、人の子らを割りふられたとき、神の子らの数に従い、国々の境を設けられた。

主に割り当てられたのはその民、ヤコブが主に定められた嗣業。主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた。」

第二に、この嗣業を受け継ぐのは、主の恵みの選びにすぎないということです。申命記7 章6~8 節「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」

第三に、全世界の祝福の基となる為です。創世記12 章1~3 節「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」

ヨーロッパ、アジア、アフリカという世界三大大陸の唯一接触する場所に導かれて、神様から受けた祝福を、全世界に分かつ使命が与えられての嗣業地です。このことを忘れたなら、この地を嗣業とされた本分を見失うことなります。

第四に、イスラエルの民の、衣食住の為です。この土地を嗣業として受けることによって、住まいを建て、牧畜や農業をし、水や食べ物、そして着る物を得ることが出来ます。

第五に、神の民にとって、この地を嗣業として受けることは、天の嗣業を受ける、しるしとなりました。ですから、ヤコブも、ヨセフも、イスラエルの地に葬られることを望みました。創世記47章28~31 節「ヤコブは、エジプトの国で十七年生きた。ヤコブの生涯は百四十七年であった。イスラエルは死ぬ日が近づいたとき、息子ヨセフを呼び寄せて言った。『もし、お前がわたしの願いを聞いてくれるなら、お前の手をわたしの腿の間に入れ、わたしのために慈しみとまことをもって実行すると、誓ってほしい。どうか、わたしをこのエジプトには葬らないでくれ。わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、わたしをエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってほしい。』ヨセフが、『必ず、おっしゃるとおりにいたします』と答えると、『では、誓ってくれ』と言ったので、ヨセフは誓った。イスラ

エルは、寝台の枕もとで感謝を表した。」

さらにヨセフに関しても創世記50 章22~26 節「ヨセフは父の家族と共にエジプトに住み、百十歳まで生き、エフライムの三代の子孫を見ることができた。マナセの息子マキルの子どもたちも生まれると、ヨセフの膝に抱かれた。ヨセフは兄弟たちに言った。

『わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。』それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。『神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。』ヨセフはこうして、百十歳で死んだ。人々はエジプトで彼のなきがらに薬を塗り、防腐処置をして、ひつぎに納めた。」

今日の御言葉に基づいて、イスラエルの嗣業地の東西南北の境を確認しますと、後にイスラエルが占領した土地より広いです。どうして狭い領土となってしまったのか。それは先住民と共存する道をとり、偶像礼拝に走り、狭くなってしまったのです。もし主にまったく従順なら委ねられた、理想の東西南北の境なのです。不信仰と不従順、そして霊的な怠慢により、狭くなってしまったのです。

さらに嗣業の割り当てには、くじが用いられました。くじが用いられたのは、嗣業地を、天の神様に委ねて、公平性を確保する為です。そして後に、くじを用いることによって、遺恨を残すことのないようにする為でした。箴言16 章33 節「くじは膝の上に投げるが、ふさわしい定めはすべて主から与えられる。」

加えて、この土地分配のために選ばれた委員会の人々は、ヨルダン川の東側のルベンとガド族を除く10 部族の代表と、祭司エリアザルとヨシュアの12 名でした。この10 部族の代表者の名前を見ますと、かつての部族の指導者の子たちではありませんでした。これは信仰の継承の問題でしょうか。不信仰によって、父の息子が、代表になれなかったのか。それとも代表はもともと家系の継承によるのではなかったのか。

そしてもう一つ注目したいことがあります。カナンの土地の場合、13 節で「嗣業として受け継ぐ」と表現されています。これに対して、ヨルダン川の東側の嗣業に対しては単に

14 節「土地を受けており」となっています。嗣業と訳された原文の言葉は「相続地」という意味でもあります。単に先祖から受けるなら相続地ですが。主からゆずりの地とするなら、受け留め方は、まったく違ってきます。

私たちは、このイスラエル嗣業の土地をめぐって受け留める信仰的な事柄があります。

第一に、すべての賜物と嗣業も、先祖からの相続というより、全ては主から賜物、ゆずりと受け留めることです。

第二に、その目的は、主の栄光を表し、祝福の基として用いる為であるということです。私たちは、全員で、素晴らしい神様の栄光を表す為に、賜物が委ねられています。コリントの信徒への手紙一10 章31 節「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」

第三に、委ねられた使命を忠実に果たして、自分の受け持ちの分野を充実させよということです。ペトロの手紙一4 章10 節11 節「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。」

第四に、主の御心に従順なら、願いよりも広く多いものになってゆきます。

第五に、一人ひとりに委ねられた領域があります。その領域で、一切を主に委ねる真実な信仰と共に、不信仰や不従順や怠慢に陥ってはなりません。ご聖霊に助けを頂きませんか。

最後に、イ・ジンファンという方の「『一度』に気をつけましょう」を受け留めます。「神様の言葉通りに生きることを決心したなら、この世の方法や価値観、判断基準などに別れを告げなければなりません。それなのに私たちは、慣れ親しんだ、この世の方法や安易さに縛られて、神様のいのちを失い、この世の文化や社会システム、価値基準を、信仰という垣根の中に入れてしまいます。

問題は、一度、開いた垣根は、再び閉じるのが非常に難しいということです。一度、飲み会でお酒を飲んでしまえば、二度目からは拒むことが難しくなります。一度、性的な快楽を求め始めると、自分でも知らないうちに、その快楽を再び求めている自分自身を発見します。一度、お金が人生の中心になってしまったなら、お金なしでは絶対に幸せになれないという観念に囚われるようになります。

一度、神様ヘの礼拝よりも、人との関係を優先すると、自分でも気づかないうちに、人生から神様が消えてしまいます。そして、そのような人はいずれ、神の子ではなく、この世の子として生きるようになります。そうならないように、日々、自分自身の内面を点検しましょう。どれだけ自分が神様と共に歩んでいるかを点検しましょう。

この世と手を組んで妥協している自分を正当化し、名ばかりのクリスチャンとして生きていませんか。もしそうだとしたら、今すぐ変わらなければなりません。今変わらなければ、一生変わることはできないという覚悟で、十字架の前に進みましょう。」

神様に愛されている皆さん、主から委ね似られているものを、一度という誘惑に負けて、妥協して、委ねられたものを、有効に生かすことが、どんどん狭くなってゆくことがありませんように。祈りと、ご聖霊と、御言葉と、執り成しの祈りの助けを日々、祈り求めてまいりましょう。

お祈り致します。

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