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2022.3.16恵みの祈祷会 コロサイの信徒への手紙3 章5~11 節

前半5~8 節「行動と動機の聖潔」


牧師 松矢龍造


キリストにあって新しい命を得ている人は、不純な欲望を持つことを避けるべきです。キリスト者には、生活の聖潔が要求されます。それは自分も隣人も神様の御名も汚されない為です。

肉体は、それ自身は悪くありません。はなはだ良かったと、創世記で言われています。しかし肉体は、自らを滅ぼす情欲に支配される危険性を持っています。さらに肉体と共に、心の問題もあります。動機が容易に変質しやすい危険があります。逆に本来は、キリスト者は、主の愛と恵みに応えて、自らの心と体を、神様に捧げることによって、神様が喜ばれる礼拝をなすことが求められています。ローマの信徒への手紙12 章1 節2 節「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

5 節に「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」とあります。「みだらな行い」「不潔な行い」「情欲」「悪い欲望」「貪欲」と5 つの悪徳が取り上げられています。この5 つの悪徳は、私たちの体の五体の中に働く欲望にあたると考えられます。ローマの信徒への手紙7 章5 節「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。」

さらにペルシャ宗教にも見られる、それぞれ5 つの良き業と、悪しき業が、真実の運命を作り出すという思想が根底にあるとも考えられています。良き業の5 つのリストは、同じコロサイ書の3章12 節に記されています。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」

さらに言いますと、この五つは、最初は行動があげられて、後に心の動機に移って行きます。これに対して、8 節の「今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。」は、心から始まり口という行動に移って行きます。5 節は、肉体を汚し、8 節は、働きを汚してしまいます。

5 つの悪徳の五番目の貪欲は、偶像礼拝にほかならないと言っています。貪欲の原義は「もっと持ちたい欲望」です。

限度を越えた、貪りの罪です。また貪りは、与えたいと思うことの正反対です。聖書では、貪欲は偶像礼拝と同じくらい悪いとされています。エフェソの信徒への手紙5章5 節「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。」

性的な罪や性的な倒錯は、精神を消耗させ、心を神様から離れさせます。そして偶像礼拝とは、自分を神様への奉仕に捧げようとするのではなく、自分の目的のために神を利用することです。それでは、地上的なものに陥り、不従順な者になって神の怒りが下らない為には、どうしたらよいのでしょうか。

第一に、捨て去りなさいと言われています。「捨て去る」とは原文のギリシア語は、「死んでいる現実を受け留めなさい」という意味です。キリスト者は、霊的にはキリストと共に十字架につけられて、肉に対して霊的に死んでいます。すでに死んだと思いなさいということであり、その霊的な現実を思い起こしなさいということです。

第二に、ご聖霊の導きに従います。夫婦のセックスに反対しているのではありません。一夫一婦の結婚に基づく性的な充実は、適切な状態です。しかし夫婦間ではないことは、姦淫の罪であり、性的倒錯です。御霊に導かれて、適切に性の賜物を用い、不適切な用い方をしません。ガラテヤの信徒への手紙5 章24 節25 節「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」

第三に、私たちが罪を犯したくなった時、私たちは、いつか神の御前に立たなければならないことを忘れないようにということです。コロサイの信徒への手紙3章6 節「これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。」心の中を他の人は、のぞき見ることは出来ませんが、神様はご存じです。そして全ては、神様の御前に問われる時が来ます。

第四に、8 節では、人を汚さず、傷つけない為に、「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。」と言われています。この「捨てなさい」という言葉は、原文のギリシア語では、「脱ぎなさい」という意味でもあります。古い人をその行いと共に脱ぎ捨てなさいということです。新しい人を着る為には、古い人を脱ぎ捨てる必要があります。私たちは、毎日、汚れた着物を脱いで、新しい着物を身につけるように、古い生き方を脱ぎ捨てるべきです。エフェソの信徒への手紙5 章3 節「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。」

主イエス様は、マタイによる福音書5 章27 節28 節でこのように言われました。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」言行と心は密接に結びついています。心と肉体の両方の聖潔を求めます。

地上的なものを捨てされたいと願っていますが、いつのまにか、霊的に死んでいるのに、捨てずに持ってしまっています。キリストと共に十字架につけられた者として、ご聖霊様によって、肉の業を捨て去り、むしろ良い愛の実を結べますように。ガラテヤの信徒への手紙2 章19 節20 節「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(二人ずつの分かち合い)

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