牧師 松矢龍造
起
普通、自分自身の言ったことが真実となるのは、自分以外の証言による裏付けが必要と
されます。もちろん、もし神の御子であるイエス様が、御自身の証しをなされるなら、そ
れは真実です。人からの証言を、イエス様は必要とされません。しかし人間の側の弱さに
配慮されて、律法が告げている二人、三人の証言を、イエス様は、御自身に関してなされ
ています。
申命記19 章15 節「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によ
って立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されね
ばならない。」自己証明でなく、二人、三人の証言です。
そして今日の御言葉である5 章31 節32 節「もし、わたしが自分自身について証しをす
るなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そし
て、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。」
承
最も、私たち人間の側が、主イエス様を、神の御子・救い主と信じて告白できるのは、
二人三人の証言だけでなく、御聖霊によって、心の覆いが取り除かれ、御聖霊の愛と力と
助けが必要です。コリントの信徒への手紙二3 章15~18 節「このため、今日に至るまでモ
ーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の
方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の
霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のよう
に主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきま
す。これは主の霊の働きによることです。」そしてもう一つ、コリントの信徒への手紙一12 章3節「また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」
転
それでは、イエス様についての五つの証言を受け留めてまいりましょう。
第一に、バプテスマのヨハネの証言です。5 章33~35 節「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。」真理についてとは、真理とはイエス・キリストのことです。ヨハネは、イエス様に対して、何度も証しして来ました。1 章6~8 節「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」
第二の証言は、イエス様がなされた業です。原文では奇跡とも訳せます。5 章36 節「し
かし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与
えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになっ
たことを証ししている。」イエス様のなさった、しるし、業、奇跡は、イエス様の内に、神様の臨在と力があるから、奇跡と業がなされたのです。使徒パウロも、言葉だけでなく、業を伴っていることによる証明のことを告げています。コリントの信徒への手紙一1 章4 節5 節「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」
第三に、父なる神様の証言です。5 章37 節38 節「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。」父なる神様が、直接、天から私たちに人間に語られた言葉があります。その一つは、バプテスマのヨハネから、イエス様が洗礼を授けられた時です。マルコによる福音書1 章9~11 節「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」
第四に、聖書が、イエス様のことを証言しています。当時の聖書とは、旧約聖書のこと
です。5 章39 節40 節「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究し
ている。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」
古代の著名なアウグスティヌは、次のように言っています。「新約聖書は、旧約聖書の中
に隠され、旧約聖書は、新約聖書の中に現わされている。」聖書の大きな特徴の一つは、永
遠の命を得るためには、どうすればよいかが記されていることです。永遠の命は、古今東
西、老若男女が求めても、聖書に以外に、与えられる方法は書かれていません。そしても
う一つの聖書の大きな特徴は、イエス・キリストを預言し、証しをしているということで
す。そして永遠の命は、イエス様を神の御子イエス様を、知り、信じ、従う中にありま
す。加えて、イエス様は、旧約聖書の律法を廃棄する為でなく、成就される為に来られまし
た。そしてどうすれば、人生を神様の恵みと真理で満たすことが出来るかを示されまし
た。しかしながら、ユダヤ教の指導者たちは、聖書の教えを知っていると言っていますが、
メシアなる救い主が、イエス・キリストであることが分かっていないのです。そして別の
偽預言者や、偽キリストなどが来ると、それを受け入れるという愚かさぶりです。
第五に、モーセによる証言です。5 章45~47 節「わたしが父にあなたたちを訴えるなど
と、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセな
のだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、
わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれ
ば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」モーセが、イエス様について書いている箇所をいくつか見ます。
一つ目は、創世記3 章15 節「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き。お前は彼のかかとを砕く。」彼なるキリストが十字架につけられことを通して、お前なる悪魔の頭を砕くことが預言されています。
二つ目に、民数記24 章17 節「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星がヤコブから進み出る。ひとつの笏がイスラエルから立ち上がり、モアブのこめかみを打ち砕き、シェトのすべての子らの頭の頂を砕く。」ヤコブの末から出るダビデの星であるイエス・キリストのことを預言しています。
三つ目に、申命記18 章15 節「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」モーセのような預言者、それが神の御子イエス様です。
四つ目に、メルキゼクに等しい大祭司イエス様のことも預言されています。
加えて、証言として、もう一つあります。これはヨハネによる福音書の後の方に出てきます。それは御聖霊なる神様が、真理なるキリストを証しされるということです。ヨハネによる福音書15 章26 節「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」御聖霊なる神様は、真理なるキリストを証しする霊です。そして御聖霊は、人と祈り、御言葉と教会と環境や状況を用いて、私たちにキリストを証ししてくださいます。
結
それでは、私たちは、イエス様についての、五つないし、六つの証言を受けて、どのように応答すればよいのでしょうか。一つ目に、神様の御心は、常に良いものであり、神様の愛は、終わることもなく、変わることもないことを、いつも覚えよということです。
二つ目に、唯一の神様からの誉れを受けて、神様を愛することです。心を尽くして主なる神様を愛することは、人間の本分です。
三つ目に、神様が、ご聖霊を通して、私たちに語ってくださらなければ、私たちには、分からないということです。ですから、祈ってご聖霊の働きに預かりながら、神の言葉である聖書を日々受け留めることです。
四つ目に、聖書を通して、キリストによる永遠の命の希望に生かされ、死を解決することが出来る平安があることを、証言することです。
五つ目に、ご聖霊によって、主イエス様の証し人となり、隣人にもご聖霊の働きが与えられるように祈り続けることです。
そして6つ目を加えるなら、ご聖霊の愛の実を頂いて、隣人を自分と同じように愛することです。インドの女性の宣教師であった、エミー・カーマイケルの「愛の人に」という祈りを受け留めます。「イエス様は、傷ついた葦を、いやす御方、忍耐強く、愛を注いでくださる御方。
わたしの隣人は、この愛を必要としているのです。わたしを愛の人にしてください。この傷んだ葦が、ふたたび、あなたの調べを奏でるために。おお主よ、わたしを真の愛の人にしてください。くすぶる燈心に、火をともしてくださる御方。燃えるような愛を、注いでくださる御方。
あなたのしもべに、欠けているものを、お与えください。この弱々しい燈心が、生き返
り、あなたに向かって、燃え立つために。おお主よ、わたしを真の愛の人にしてくださ
い。」
お祈り致します。