2022.3.6ヨハネによる福音書5 章1~18 節「神様の救済による万物の再創造」
- CPC K
- 2022年3月6日
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牧師 松矢龍造
起
天地万物の創造主なる神様は、物理的には六日で創造の業を完成されました。しかし七日目を安息日と定め、祝福と聖別の日とされ、ご自分の仕事を完成されました。私たちの六日間の労働や勉学も、七日目の安息日を加えて初めて完成となります。それは労働や勉学の目的が、神様の栄光の為であったと神様を礼拝してこそ、真実に完成するものであるからです。
労働や勉学が、無目的や、誤った目的と動機なら、その労働と勉学は、真の完成とはなりません。奉仕にしても、神様を礼拝するためのものでなければ、無に帰します。また勉学に関しても、有名な格言の一つに、「神無き知育は人を悪魔にする」ともあります。
ところが、人類がアダムとエバにおいて堕落し、原罪を持つ人類は、創造主なる神様と安息日をないがしろにして、労働と勉学の目的と意味が間違ったものに変質してゆきました。それで、父なる神様は、救い主なる神の御子イエス様を、人類に遣わされました。それは救済によって、万物が再創造され、もう一度、本来の姿にもどれるようにするためであり、今も働かれておられます。
承
神の御子イエス様は、ガリラヤのカナで二回目の奇跡をなされた後、ユダヤ人の祭りがあったので、再びエルサレムに上られました。この時の祭りは、仮庵の祭か、過ぎ越しの祭りと考えられます。仮庵の祭りは、秋の収穫が済んだ時に行われました。かつてイスラエルの民が、エジプトを出て荒れ野を、さ迷った時、いかに多くの守りが神様によって与えられたか、忘れない為に、仮小屋を作って覚える祭りです。
また過ぎ越しの祭りは、奴隷とされていたエジプトから脱出する際に、エジプトになされた10の災いや、裁きを血によって過ぎ越して頂いた恵み、紅海が開かれる奇跡、荒れ野での主の臨在を忘れない為に、種なしパンや子羊の料理を食べて守られる祭りのことです。
転
エルサレムの北の城門に、羊の門があり、その傍らに、ヘブライ語で「憐れみ」という意味でベトザタと呼ばれる池がありました。そこには五つの回廊がありましたが、この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていました。この池は、間欠線であって、時に水が噴き出します。
古代の人々の間には、間欠線で水が噴き出す時、天使や霊が水の近くにいて、癒しに協力するという思想がありました。人々は、主の御使いが、この池に降りて来て、水を動かし、その時、最初に、この池に入った人は、どのような病気であっても治ると信じていたのです。
そこに38 年も病気で苦しんでいる人がいました。38 年間、病気を患っている状況は、肉体的
にも精神的にも、社会的に絶望を意味していました。当時、病気の人々は、本人や両親の罪の故に、神に罰せられていると信じる者たちがいました。イエス様は、このような考え方を後の9 章3 節で否定しています。けれど本人も、他の人から、病の原因は、罪からであると考えていて、霊的にも絶望していたのではないでしょうか。そして当時の社会では落伍者として見られていました。イエス様は、そのような社会から見捨てられていた人生の落伍者に対しても、救い主でした。
6 節「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。」イエス様が、この病人を見て、知って言われ言葉は、「良くなりたいか」でした。原文では、この言葉は、「治りたいか」という意味と「正しくなりたいか」という二つの意味がある言葉が使われています。すなわち物理的な体の癒しを求めるかということと、霊と心の良心において正しくなりたいかという、二つの意味を込めてイエス様は、この病人に問いかけられたのです。すると病人が答えます。7 節「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」38 年の間、病が癒されることがなかっただけでなく、誰も自分を助けて、一番最初に池の中に入れてくれる人はいませんでした。すなわち見捨てられていた38 年間であったということも表れています。このような悲観的な応答をせざるをえないほど、絶望的な状況した。しかし人間の無力さが示されるところでこそ、救い主キリストの力が現わされる時です。
イエス様は言われました。8 節「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」イエス様が病気を、すぐに癒されたので、その人は、床を担いで歩きだしました。その日は安息日でした。10 節「そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。』」当時のユダヤ人たちは、律法の他にミシュナと呼ばれる細則規定を作っており、それによりますと安息日には、39 箇条目による安息日禁止規定がありました。その中に、荷物を運ぶことも、禁止規定の一つでした。
ユダヤ人たちは、病が癒されて、床を担ぐことは、荷物を運ぶことになるので、違反していると見ました。憐れみの目で見ておられたイエス様との見方と、まったく違っていました。ユダヤ人たちは、人の命や健康よりも、自分たちの、つまらない規則に関心があったということです。14 節「その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。『あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。』」イエス様は、肉体の病を癒されただけでなく、霊と心の良心においても、救いが働くように導かれました。イエス様の癒しは、病をも根源とする罪からの解放を目ざされていたのです。罪に留まる者は、結局、罪の奴隷であり、罪の内に死ぬほかありません。それはもっとひどい
ことです。この病人には、さらに大きな奇跡である、罪が赦されて、永遠の命が与えられ、神様御前に、真の人生を歩むと言う奇跡が必要でした。この奇跡と救いは、人間の誰もが必要としているものです。
この人は、自分の病を癒してくださった方が、癒された直後には誰か分かれませんが、後に神殿で再びイエス様と出合い、名前が分かったので、自分を癒して人は、イエス様だと伝えました。するとユダヤ人たちは、イエス様を迫害し始めました。イエス様が安息日に、このようなことをしておられたからだと記されています。
これに対してイエス様は言われました。17 節「イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』」父なる神様は、救済によって、万物が再創造されるまで働かれるお方です。そして御子イエス様も、人間の罪の為に破壊れさた世界に対して、万物の更新の為に、働かれるお方です。
さらに安息日は、万物の完成を祝う日です。また創造主にして、救い主なる神様を、礼拝する日です。そして肉体と精神と霊と社会性において、安息を得る日です。ですから肉体と魂の癒しと救いを頂く日として、安息日も、ふさわしい日です。イエス様は、あえて安息日において、何度も肉体と霊の癒しをなされているように見えます。それは安息日に対する考え方や、イエス様ご自身が救い主であり、神の御子であることを、あえて何度も示されたことのゆえでしょう。ユダヤ人には、二つの選択がありました。つまりイエス様を神の御子イエス様と信じるか。それとも父なる神と自分を子として神と主張されているイエス様を信じることなく、冒涜罪で訴えるかのどちらかです。彼らは、後者を選びました。私たちは、どちらを選ぶでしょうか。他にも、私たちは、生きるための指針を、神様が造られたものを基準にするのでしょうか。それとも人が作ったものを基準とするのでしょうか。さらに人々を助ける人となっているのか。それとも不必要な、つまずきの石のような人になっているのか。どちらでしょうか。
イエス様は、医学的にも人間的にも絶望をかかえている人々を前にしていました。また癒しの業をなされると、そこに人間の憎悪と敵意をなす人をも前にしておられました。そしてどちらの為にも、十字架と復活の道、すなわち救いと再創造の御業の為に、進んでかれました。
結
ユダヤ人たちの無知と愚かさを見る時、私もご聖霊様の助けと導きがなければ、ユダヤ人と同じことをしたのではないかと思います。にもかかわらず救われたのは、神様の憐れみの故です。まだイエス様を信じて受け入れていない方々は、このイエス様を、私の救い主、癒し主と信じませんか。
38 年間、病で苦しむ者を主イエス様が癒されたように、ご自身を求める者に、神様は救いをお与えになります。ご聖霊によって、神の御子を信じて受け入れ、霊的にも、御心なら肉体と精神と社会性においても癒される人々が、さらに興されることになりますように。
最後に、キム・ジョンジュと言う方の「心からの悔い改め」を受け留めます。「インターネットのあるサイトに『女性が一番嫌がる男性の言葉』という書き込みがありました。その第一位は、『ぼくが全部悪かった。とにかく謝る。ぼくが間違っていた。』だそうです。
女性は、男性の過ちによって傷ついた『心』を理解してほしいのに、男性は、女性の気持ちを知ろうともせず、とにかく『ぼくが悪かった』と言うだけだというのです。私自身も、当面の居心地の悪さから逃れようとして謝ったため、妻から不満をぶつけられたことがあります。
そのとき私は、自分が妻をどれほど傷つけたかを考えた後、『ぼくがこのような行動をして、きみの心をこんな風に傷つけてしまった。ごめん。』と言われなければならかったことに気づきました。言葉ではなく、愛する人の『心を知る』ことのほうが大事です。
神様の御前で、悔い改める私たちの姿も、同じことが言えると思います。罪を悔い改めると言いながら、『神様、私が全部悪うございました。私は本当に罪人です。イエス様の血潮によって洗ってください。アーメン。終わり!』といった感じなのです。
型にはまった流暢な言葉を並べた祈りではなく、自分の罪が、神様の心を、どれだけ傷つけていたのかを身に染みて知り、心の底から湧き出る嘆きこそ、真の悔い改めです。神様を知る知識を与えてくださる御言葉は、真の悔い改めへと導いてくださいます。謙遜に、罪を認めて、心を痛め、心から悔い改めるときこそ、神様との関係が正しく回復されます。」
神様に愛されている皆さん、神様の救いにおける再創造に預かる為に、イエス様を、神の御
子・救い主と信じ、罪を真に悔い改め、私の救い主、かつ癒し主と告白しませんか。そして一人でも多くの人々が、イエス様の救いと癒しを受け入れることが出来るように、とりなし、愛の業をなし、証しすることを、ご聖霊によって、なしてゆきませんか。お祈り致します。

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