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2022.3.9 民数記33 章1~56 節「人生は旅であり地上は寄留地」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2022年3月19日
  • 読了時間: 9分

牧師 松矢龍造


よく人生は旅と言われます。生まれ出た時から、死ぬ日まで、人生は旅です。しかも二度と繰り返すことが出来ない旅です。真の故郷である天の嗣業を目指して、地上は寄留地に過ぎません。今日の御言葉は、エジプトを出てから、モアブ平野に至るまでの40 年の旅程が記されています。この荒れ野における旅は、約束の地であるカナンを目指します。それはちょうど神の民であるキリスト者が、地上という荒れ野から、天の御国へと向かう旅と重ねられます。

この旅において、少しでも神様の栄光と善行をなす者へと、霊的に成長し、聖化され、純化される歩みとなりますように。イスラエルの民が、奴隷とされていたエジプトから解放されて、カナンの地に到着するには、物理的には40 年もかかるはずがありません。霊的な成長や純化、成熟する為に、40 年を要したという側面があります。

ペトロの手紙一2 章11 節12 節「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」

荒れ野の旅が、40 年にもなったことの、もう一つの側面は、カナンに住む原住民が、悪魔礼拝、偶像礼拝、子ども人身犠牲としてささげるモレク礼拝など、異邦人の悪が満ちるまで、イスラエルの民が、カナンの地を占領する時が満ちないとされて、主はイスラエルの民を、荒れ野において待たせたというもう一つの側面があります。

イスラエルの民が、カナンの地に嗣業地を得る。それは、アブラハム、イサク、ヤコブと創造主なる神様が約束されたことの成就です。また遊牧民として旅をして来たイスラエルの民が、エジプトで身につけた、農業と建築技術をもって、定住する地です。さらにエジプトとアジアとヨーロッパを結ぶ地において、全世界の祝福の基としての使命を果たす地です。そして、カナンの地に葬られることは、天の嗣業を与えて頂く印でもありました。

エジプトを出てからモアブ平野に至るまでの地名が、40 上げられています。それは象徴的には、40 という数字は、試練と苦難の象徴数字です。40 年という年数の数も40 であり、この旅程は、苦難と試練であったとの意味合いが込められているのではないでしょうか。

この旅程が聖書に記された理由として考えられることは、旅の途中で経験した神様の御恩寵を想起して、イスラエルの民に、感謝の念を呼び起こす為でしょう。また荒れ野の旅を題材として、イスラエルの民が自らの失敗と罪を反省し、悔い改める為でしょう。そして全てにおいて、ここまで支えられ守られた感謝を、主に捧げる為であったでしょう。

代表的な地名と出来事を振り返ることにします。ラメセスは、エジプトのカイロの北東120 ㎞であり出発した場所です。続いて紅海において、海が分かれる奇跡によって、追って来たエジプトの戦車隊が全滅しました。マラという場所では、不純物が混じった水が、飲み水に変えられる奇跡を目の当たりにしました。

シンの荒れ野では、全能の神様に、食べ物の欠乏を訴えて、マナとウズラの供給を受け始めた場所です。レフィディムでは、神様が岩から流れる水を出され、渇きをいやして頂いた場所です。続いて旅の途中で、アマレク人との戦いに勝利させて頂きました。シナイ山では、律法の板を頂き、創造主なる神様と、契約関係に入れられました。

ハツェロトでは、アロンとミリアムが、モーセに反抗して、ミリアムは、重い皮膚病となり、モーセの執り成しの祈りを通して癒されました。カディシュでは、女預言者であり、モーセの姉のミリアムが死んだ地です。そして祭司アロンは、ホル山で死去しました。

本当に、様々な試みの時がありました。エドム人やモアブ人の妨害や、呪術師バラムによって、女性の誘惑と偶像礼拝に陥ったり、コラなどの反乱があったりもしました。旅程と訳された原文の言葉は、「杭を抜く」あるいは「宿営をたたむ」という意味合いを持っています。主が雲の柱、火の柱をもって、荒れ野にいたイスラエルの民を導かれ、杭を抜き宿営をたたむことを繰り返しながら、荒れ野での旅程を経過してきました。部族ごと、氏族ごとに、まとまって行動し、宿営する際には、幕屋を中心に、宿営しました。

私たちも、自分の人生を振り返ると、どのような人生の旅路を経過して来たでしょうか。それは良き模範となるような信仰の遺産もあれば、失敗と罪を経験して、後の警告とする場合もあります。コリントの信徒への手紙一10 章1~14 節において、使徒パウロは、このイスラエルの荒れ野における経験を警告とするようにと言っています。

「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、

皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。

しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』」と書いてあります。

彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。」

モーセは、旅程に続いて、ヨルダン川を渡るにあたって、命令しました。52 節「あなたたちの前から、その土地の住民をすべて追い払い、すべての石像と鋳像を粉砕し、異教の祭壇をことごとく破壊しなさい。」妥協は、堕落となってゆきます。人に害を一見及ぼすとは思われず、魅力的だと思っても、性的な罪など、恐れずに対処すべきです。悪習慣や、不健全な関係、ある種の生活態度は、広い意味での偶像です。もしこれらの偶像の支配を許すなら、それは後になって、深刻な問題の原因となってゆきます。

55 節56 節「もし、その土地の住民をあなたたちの前から追い払わないならば、残しておいた者たちは、あなたたちの目に突き刺さるとげ、脇腹に刺さる茨となって、あなたたちが住む土地であなたたちを悩ますであろう。わたしは、彼らにしようと思ったとおりに、あなたたちに対して行うであろう。」

悪との妥協は、観察力を害し、心を弱くします。また信仰の妨げとなります。そしてイスラエルの民が、偶像と全く縁を切ることが出来ず、後にカナンの地に入っても、アッシリア帝国や、バビロン帝国によって滅ぼされ捕囚となってしまったことは、歴史が証明するところです。いかに世との妥協と偶像礼拝に注意しなければならなかは、大きな警告です。

それでは、このような妥協と偶像礼拝に陥らない為には、どんなことが大切でしょうか。

第一に決断です。岐路に立ったと時、何度も決断が必要です。現在で言えば、教会に行こうと決心する。主イエス様を信じる決断。主日礼拝と、日々の静思の時・密室を守ろうとする決断。祈祷会に出ようという決断。献金の決断。家族の為、友の為に仕える決断。自分の時間や持ち物、趣味やエネルギーを、主に捧げる決断。奉仕する決断。赦す決断など、決断を先延ばししないで、決断することです。

第二に、肉に着いた信者や、世に着いた二心の信者は、真の神の民の重荷となってしまいます。自分がその重荷となってしまうことのないように、交わる友に注意が必要です。悪しき感化をなす者と交わるなら、染まってゆきます。そうならない為には、悪しき古き人を脱ぐ必要があります。コロサイの信徒への手紙3 章5~10 節「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。

これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」

第三に、ご聖霊なる神様の完全な支配を受け入れることです。そして御霊に満たされて、イエス様が悪魔から誘惑を受けられた際に、御言葉によって勝利したように、御言葉の剣によって、悪魔の誘惑と、攻撃に対して、打ち勝つことです。

第四に、信仰の創始者あり、完成者であるキリストから、決して目を離してはなりません。キリストを見ずに誘惑や攻撃に対抗するなら、沈んで行きます。キリストから、霊的な目を離してはなりません。

私たちの国籍は、天にあります。また人生は旅です。そして地上では寄留者です。天国市民、神の国の市民として、全世界を、ご聖霊に満たされて祝福する祝福の基となってゆきませんか。最後にヘブライとの信徒への手紙12 章1~3 節を拝読して閉じます。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。

信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」

お祈り致します。

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