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  • 執筆者の写真CPC K

2022.4.10ヨハネによる福音書6 章14~21 節「宇宙を創造された神の御子イエス様」

牧師 松矢龍造


創世記の1 章で、創造主なる神様が、天と地を造られたとあります。そしてヨハネによる福音書の1 章で、万物は、言なるイエス・キリストによって成ったとありました。この宇宙を造られたイエス様が、五つのパンと二匹の魚を用いて、男だけで5 千人、女性と子どもたちを加えたら約2 万人の人々を養われた奇跡を前回のところで見ました。本日は、ガリラヤ湖も創造されたイエス様が、水の上を歩かれ、嵐を静めて弟子たちを救い出された奇跡が記されています。

ある方が、クリスチャンは、人生という海を、船で旅するような航海者であると表現しまし

た。「クリスチャンは、人生の航海者である。すなわち忍耐を船具とし、希望を錨とし、信仰を舵とし、聖書を海図とし、キリストを船長とし、ご聖霊なる神様の風を帆に受けて進むところの航海者である。」

ガリラヤ湖は、海抜マイナス200mのところにあり、すり鉢状になった地形から、しばしば嵐によって海面が荒れました。ベツサイダで、パンと魚の奇跡を行われたイエス様と弟子たち一行は、群衆から離れて、イエス様は、弟子たちを舟に乗せて、ガリラヤ湖の東側から、西側にありますカファルナウムに向かわせました。

それはイエス様がなされた奇跡を見て熱狂的になっている群衆から逃れる目的もあって、弟子たちを舟に乗りこませました。主イエス様は、その夜に、嵐が起こることを知っておられましたが、あえて弟子たちを舟で行くことを許されました。その嵐を最高度に利用する力が、ご自身にあることを知っておられたからです。

しばしば、私たちにも、人生の嵐や、霊的な嵐に直面します。その中で、弟子たち同様、主キリストに委ねるなら、どんな嵐の中でも、平安が与えられ、目指すところに着くことが出来る。このような信仰的な高嶺まで習熟する必要があります。

ベトサイダで、パンと魚の奇跡を見た人々は、14 節「まさに、この人こそ、世に来られる預言者である」と言いました。この預言者とは、モーセが申命記を通して預言した人のことです。18章15 と18 節「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」

「主はそのときわたしに言われた。『わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。』」

モーセの預言した預言者とは、父なる神様の啓示を受けて、父なる神様の御名によって語る者であり、救い主・メシアに等しい権威を持つ人のことです。しかし民衆が求めていた預言者とは、ローマ帝国の支配から、自分たちを解放してくれる預言者であり、地上の政治的、軍事的な君主を待ち望んでいました。

イエス様が、神の御子であるとか、人が自分の罪を告白して、イエス様を救い主として受け入れるという思いがありませんでした。奇跡だけを求め、地上の王を求めて連れて行こうとする群衆から、イエス様は退かれて、ひとりまた山に行かれました。

イエス様は、御自身が、この世に来られたのは、十字架上で、罪人の身代わりとなって死ぬためであることが分かっておられました。この目的の為に妨げとなるものには、一切関わろうとはなさいませんでした。イエス様には、虚栄心や自尊心によって、心が動かされることはありませんし、この世の利益で、人を集めて勢力を築く宗教家とは、根本的に違うイエス様の生き方です。

主イエスが、山に退かれたことは、イエス様が、単なる熱心家でもなく、弱い狂信者でもなかったことを、決定的に証拠立てるものです。しかしイエス様は、禁欲的な世をはかなむ遁世家ではありません。人々にかつがれる危険が去ると、また町々村々へと帰って、愛の活動を続けられました。

イエス様は、犠牲の祭壇である十字架に上るまでは、王座に上ろうとはなさいませんでした。苦しみを受け、血潮を十字架で流され、死んで後、初めて高く引き開けられます。主イエス様は、この世の王にされそうになると、必ずその場から退かれました。ところが、十字架につけられそうになると、むしろ姿を現わされました。

主がこのように、黙想し、父なる神様と交わるために、誰にも煩わされない静かな時を持つことを必要とされたとすれば、私たちがそれを必要とするのは当然です。

16~19 節「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。」25 ないし30 スタディオンの距離とは、5~6 ㎞位の沖あいです。イエス様が湖の上を歩いて舟に近づいて来られました。この水面を歩く奇跡は、創造主なる神様が、創造の時に水に命じられたこと。またモーセが紅海の海を分断してイスラエルの民を助けられた奇跡。そして再臨のキリストが、雲に乗って再び来られる奇跡を、初代教会の人々は、このヨハネによる福音書を読んで想起したことでしょう。

20 節「イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』」イエス様は、私たちが遅れるように思えても、必ず来てくださいます。しかも神様の時に、一番ふさわしい時に来てくださいます。ここでイエス様が「わたしだ」と言われた原文の言葉は、「わたしはある」という意味です。これは出エジプト記において、創造主なる神様が、モーセに対して「わたしはある」という名であると言われた同じ言葉です。わたしは、万物を創造し、永遠に存在する神であるという意味です。出エジプト記3 章14 節「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。【わたしはある】という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」ガリラヤ湖をも造られたお方が、その波を静めることができるのは、当然のことです。キリストにお委ねするなら、どんな嵐の中でも、平安が与えられます。信仰は、神様に行動してくださることを期待する心の態度でもあります。この期待に基づいて行動するなら、恐れに打ち勝たせていだたけます。

復活されたイエス様は、今でも私たちの悩みの時の近き助けです。困難な時、私にとって妻や子が大きな助けであれますが、最大は神様と、その御言葉であることが、私の信仰経験でも言えることです。宇宙万物を創造され、永遠に存在し続けられるお方が、私たち一人ひとりにも、「わたしだ。恐れることはない」と今も言ってくださいます。

21 節「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」弟子たちは、自分たちの肉の力では、なかなか目指す地につけませんでした。しかしイエス様をお迎えすると、間もなく目指す地に着くことが出来ました。私たちの人生の嵐の中でも、主イエス様を迎えてこそ、目指すところに行き着くことが出来ます。

主イエス様は、嵐を静める自然界の主であり、再臨のキリストでもあります。主イエス様を神の御子・救い主と、正しくメシアとして受け留め、このお方を恐れ敬い、主から示されるところに行き着く歩みとなりますように。最後に、チョ・ドンチョンという方の「何を追い求めていますか」という内容を受け留めます。「オランダ出身のアブラハム・カイパー(1837 年から1920 年)は、50 年以上、公職に就き、首相、牧師、下院・上院議員、教授、編集者などの華やかな経歴を持っています。彼の200 冊以上の著書は、各分野でベストセラーとなりました。彼が娘に宛てた手紙を見ると、彼の業績は、簡単に築かれたものではなかったことが分かります。『私の召命は高く、私の課業は光栄あるものだ。私のベッドの上には十字架がかかっている。毎晩、その十字架に目を向けるたびに、主が私に【わたしの苦い杯を満たす、あなたの苦しみは何か】と問いかけておられるように感じる。そのお方に仕えることは、非常に尊く栄光に満ちたものだ。』彼が生涯にわたって追い求めたものは、イエス様に従う道でした。あなたが疲れ果てているとしたら、それはなぜでしょうか。何のために、いつも焦って駆け回っているのでしょうか。あなたの生きる目的は、自分のためのものですか、それとも、イエス様のためのものですか。村のために生きる人は、村から称賛され、国のために生きる人は、愛国者と呼ばれます。

しかし、被造物を超越しておられる創造主、永遠の本質であり実体である方、この世の何ものとも比較できない最も大いなる方のためにて生きる人は、それにふさわしく偉大な人です。今の時の苦難は、やがて私たちに掲示される栄光に比べれば、取るに足りないものです。私たちの究極的な目的は、ただ神様の栄光であるべきです。」

主に愛されています皆さん、主イエス様は、全宇宙を創造されたお方です。このお方は、私たちの罪のために十字架に着けられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に復活される為に、この地上に来られました。そして世の終わりに、もう一度再臨されるお方です。そして御聖霊によって、世の終わりまで共にいてくださる、いと近き助けでもあります。このお方から、人生の嵐の中で「わたしだ、恐れることない」と励まされ、強められ、ご聖霊の力に預かって、主の栄光を目指して歩む人生となりませんか。

お祈り致します。

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