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2022.4.20民数記36 章1~13 節「主から委ねられた領域で」

牧師 松矢龍造


昨年の3月から始めました民数記の連続講解説教ですが、約一年かけて、今日が民数記の最終章です。民数記は、荒れ野における神の民への主の御言葉です。当初は、コロナ禍という霊的な荒れ野を覚えての始まりでした。しかし再び東日本に大きな地震があり、またウクライナにロシアが侵攻するという霊的な荒れ野が加わった時となっています。

モーセの時代は、今から約3 千5 百年前ですが、この後何千にもわたって、様々な荒れ野が存在してきました。このような荒れ野において、民数記を人類は、読み続けてきました。そして今日、希望が丘教会が置かれている状況の中で、私たちは民数記を読み進めてきました。不十分な講解説教であったことですが、一つの書簡を終えることは、感慨深いものがあります。

皆さんは、この民数記から、おもに、どのようなことを、御自身の置かれた状況や信仰生活の中で、読み進んで来られたでしょうか。直接対面でこの祈祷会に出席された方々、ネットを通じて参加された方々、説教集によって参加された方々がおられます。その方々全員から感想をお聴き出来たらよいのですが、そうもいきません。

最終章最後の36 章13 節は、民数記全体の結びの文となっています。「以上は、エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野で、主がモーセを通して、イスラエルの人々に命じられた命令と法である。」そしてモーセによる勧告は、この民数記で終わらずに、次の申命記へと引き続いて展開されて行きます。

最後の36 章は、おもに27 章にありました女性の相続人に関する規定の補足となっています。その女性の相続人が結婚した場合、結婚相手が他の民族の男性であった場合は、嗣業地が、他の民族に移ってしまうことになります。それでは、主が嗣業地を決して移してはならないという命令に抵触してしまうことになります。そこで、他の部族に土地が移って相続されないようにするための規定が記されています。

それでは、どうしてこの36 章が最後に確認されることが、民数記において大事なのでしょうか。荒れ野の生活から、約束の地とヨルダンの東に嗣業地が委ねられようとしている時です。この委ねられる嗣業地が、どうして移してはならないか、再度確認されることになります。それは、私たちの一人ひとりにも、主から委ねられた領域があります。その場所で、どのように信仰生活を生きて行けばよいかと、適応される御言葉の箇所です。

もう一度、イスラエルが嗣業として委ねられた土地が、特別な意味を持っていることを確認いたしましょう。

一つは、全世界の祝福の基となる為に、ヨーロッパ、アジア、アフリカに陸伝いで行ける場所に置かれたということです。

二つ目に、天の嗣業の前味として委ねられたということです。

三つ目に、先祖アブラハム、イサク、ヤコブと約束されたことの成就であるということです四つ目に、この地のユダ族の末から救い主が誕生するということです。五つ目に、農耕や住居の基盤となる土地でした。この主から委ねられた土地は、決して移してはなりません。後に北イスラエルの王となったアハブが、土地を手に入れようとした時、委ねられた民は、決して手放さず、殺されてしまうという事が起こりました。命をかけて、守り抜くほどの嗣業地です。

36 章で問題とされていることを、もう一度確認します。モーセは、かつて民数記の27 章で、男性の相続人がいないツェロフハド家の相続問題を取り扱うにあたって、娘が相続することを許しました。この娘たちが、他の部族に嫁ぐ場合、決して移してはならないはずの嗣業地が、他の部族に移ってしまうことが問題とされたのです。

イスラエルには、ヨベルの年の規定があり、50 年に一度、借財の免除や、売買地の回復が定められています。しかしヨベルの年は、売買された土地の返還であって、相続された土地については、効力がありませんでした。

そこで、モーセは、再び、創造主なる神様の指示を仰ぎました。私たちも、神様に人生を導いて頂くことへの信仰が弱められてはなりません。創造主なる神様は、全ての土地の創造主にして主権者また所有者です。また結婚は、創造主なる神様が定められた約束です。

これに対して、主が語られたことは、相続権を持つ女性は、自由に相手を選んでよいのですが、ただし婚姻の相手を、同族内の者に限定するということです。これによって、相続地が、他の部族に移ることはないということです。私たちも、神様に人生を導いて抱くことを選択するなら、民数記に記された神様からのメッセージを無視するべきではありません。

神様は、自由を許可された中にも、一つの制限を設けておられます。人類の始め、エデンの園の中にある、どの木の実からも食べてもよいとされました。しかし唯一、善悪を知る知識の木からは食べてならない。食べると必ず死ぬと言われました。電車の走行も、レールの上を走るなら安全ですが、レールを外れると大事故となり、命も失いかねません。また池の鯉も、その池の中を自由に泳ぐことが出来ても、池から飛び出たら死んでしまいます。同じように、私たちの人生も、神様への栄光、愛や幸福も、神様の限定の内にある時のみ、受けられることが表されています。さらに結婚も、出来ればクリスチャン同志の結婚が望ましいです。同じ人生の目的、同じ信仰による主義であるならば、何と幸いでしょう。コリントの信徒への手紙二6 章14 節15 節「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。」

クリスチャン人口の少ない日本であり、しかも女性の信徒に比べて、男性の信徒が少ない日本の状況です。いずれにせよ、どの時代、どの場所においても、人は創造主なる神様の示しを必要としています。ご聖霊なる神様、聖書、摂理、聖徒たち、きよい良心などを通して、絶えず主の御旨を求め、主はこれらを通して示されます。主の細き御声に聴き従うように、ご聖霊様、お助け下さい。そして嗣業というのは、単に土地や家財だけでありません。信仰の遺産を残すことも重要です。できれば信仰の家庭を築き、日々家庭礼拝をし、忠実な教会生活や信仰生活を通して、子孫に信仰の遺産を伝え、証しすることが重要です。これらは、祈りつつ、ご聖霊の力に預かって、なしてゆくことです。

モーセが、ツェロフハドの娘たちに示した規定は、その後イスラエルの全ての部族に適応されることになってゆきました。そして私たちも、主から委ねられた領域において、主の御栄光と、祝福の基、平和の使者、十字架と復活の証人としての信仰生活が求められます。これらは、ご聖霊によって、可能となってゆきます。

私たちは、民数記を終えるにあたって、次の要素を受け留めることが大切となります。一つは、荒れ野で、イスラエルの民が過去のエジプトでの罪の享楽に憧れましたが、私たちは、過去の罪の享楽に憧れないように。

二つ目に、イスラエル民が、荒れ野において、絶えず神様やモーセなどに不平を言いましたが、私たちは不平を言うことがありませんように。

三つ目に、イスラエルの民は、荒れ野において、偶像礼拝や、性的な罪に陥りました。私たちは、偶像礼拝と性的な罪から離れるようにすることです。

四つ目に、イスラエルの民は、時に数を誇りましたが、私たちは、数や人間を誇ることがありませんように。

五つ目に、イスラエルの民は、荒れ野において、他の民族の罪深い文化に妥協してしまいました。私たちは、この世の罪深い文化に妥協しないように。

そしてこれら五つの注意点に共通していることは、全ての制限を退けて、その心のままに生きることに、一時幸せを見い出そうとして、永遠の宝を失うべきではきないということです。私たちは、何を第一としているでしょうか。しばしば第一のものを誤ってしまい、得ようとして本当の幸福を、結局失う人々があります。神様の栄光と、神様と人への愛、さらに委ねられた領域を主の為に用いてゆく。そして私たちは、天の嗣業を目指して、この地上では寄留者であること。これらの神の民の本分を、常に見失ってはならないことです。

マタイによる福音書6 章19 節20 節「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、

虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。

富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」

イスラエルの民は、荒れ野において、不信仰に陥り、20 歳以上の人達は、そこで死にました。そしてヨシュアとカレブ以外は、約束の地に入れませんでした。モーセも、アロンも、ミリアムも同様に入れませんでした。その中で、モーセは、神様の御言葉を語り続けました。それは悲しみと苦難、不信仰と不従順の中で、裁きと悔い改め、回復と希望のメッセージでした。私たちも、同様な霊的な荒れ野において、主の御言葉を聴き続ける必要があります。

最後に、ソ・チャンヒという方の「復活という窓」を受け留めます。「ニューヨークの世界貿易センターは、一時むごたらしい事故の現場でしたが、今はそんな事故があったことさえ、想像できないほどに活気があふれています。この事故の現場には、滝のように水が流れ落ちる巨大な池を見ながら、犠牲者を追悼することができる『911 メモリアルミュージアム』があります。大きな悲劇が起こった場所ですが、芸術があります。この場所は、人生に悲しみという窓以外の別の窓があることを見せてくれます。しかし、私たちの社会には、悲しみや恨みを解決することのできる世界観が欠けています。大きな悲しみの場所には、悲しみだけがあります。悲しみが悪いと言うのではありません。ただ、悲しみは、悲しみによっては乗り越えることができず、失望感から脱することも出来ません。

キリスト教弁証家であるオズ・ギネスは『この世だけが存在すると考え、反対の実在を認めなければ、この世を判断する基準を持つことはできない。人生の究極的な不調和と向き合うとき、天国を認めなければ、暗い面だけを扱うことになる』と言っています。悲しみを深く感じたからといって、悲しみを乗り越えられるわけではありません。信仰の観点から人生の苦難を見るなら、私たちは力強く生きていくことができます。人生の中で、極度の悲しみに直面しても、復活という別の窓から見るなら、その悲しみに打ち勝つことが出来るのです。」

主に愛されている皆さん、あらゆる時代の荒れ野において、最も必要なことは、主イエス様の十字架と復活、ご聖霊の助け、そして父なる神様の愛と慈しみ。そして神様の御言葉とこの神様への祈りです。この三位一体の神様の助けを常に求めて、信頼と従順の中で、人生の荒れ野に打ち勝ってゆきませんか。

お祈り致します。

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