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2022.4.24ヨハネによる福音書6 章22~40 節「誤った探求者でなく真理と真実の探究者」

牧師 松矢龍造


私たちが生きて行く為に必要なものは、少なくとも三つあります。一つは、肉体の為にパンと水と空気です。これらがなくては、物理的な肉体は生きて行くことが出来ません。これらは創造主なる神様によっています。二つ目に、愛と赦しです。愛と赦しがなければ、自分も他の人も生きて行けません。愛と赦しの根源は、キリストの十字架です。そして三つ目に、希望です。希望の反対は、絶望であり、その究極は死です。ですからキリストの復活は、希望の源です。

ですから、私たちが生きてゆく為に、どうしても必要な三つの全ては、究極的には、創造者にして、救い主なるイエス様のみが与えることがお出来になります。いわば、私たちの生と死は、創造者にして救い主なるイエス様に、全てがかかっています。

このことは、旧約時代では、次の御言葉によって表されて来ました。申命記8 章3 節「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

イエス様は、ガリラヤ湖の東岸において、男だけで5千人、女性や子どもたちを加えたなら約2 万人をパンと魚で満たさせる奇跡を行われました。続いて、湖の上を歩かれる奇跡をなさって、カファルナウムに行かれました。

翌日、湖の東岸に残っていた群衆は、そこに小舟が一そうしかなかったこと、また、イエス様は弟子たちと一緒に舟に乗りこまれず、弟子たちだけが出かけたことに気づきました。ところが、他の人々が、数そうの小舟に乗って、湖の東岸に着き、奇跡が行われた場所に近づいて来ました。

群衆は、イエス様も弟子たちも、その場所にいないと知ると、小舟に乗って、イエス様を捜し求めて、カファルナウムに来ました。そしてイエス様を見つけると「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と聞きました。イエス様は言われました。26 節「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」

この時、群衆が求めていたのは、ローマ帝国の植民地支配の中にいて、パンに不自由していましたから、政治的、軍事的、経済的メシア・救い主を求めていました。

ですから、イエス様は続く27 節で言われました。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」

イエス様がメシア・救い主として来られたのは、もっと根本的な、罪と死と永遠の命、虚無と悪魔からの救いと解放の為に来られたのです。物理的な食べ物は、朽ちるものですが、イエス様が与えるパンは、永遠の命に至る食べ物です。

牧師を養成する神学校には、様々な御言葉を、私に語り掛けられた言葉として受け留め、召命感を持って入学してきます。私の場合は、エレミヤ書1 章7 節8 節の御言葉でした。「しかし、主はわたしに言われた。『若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す』と主は言われた。」

他の神学生の中に、今日の御言葉を召命の御言葉として受け留めて入学しましたと言われる人もいました。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」

ここで、イエス様は、生活の為に働いてはならないと言われたのではありません。それが生活の中の最高の目的や目標となってはならないということです。私たちの最高の生活や働きの目的や目標は、とこしえに残る何ものかの為に働くべきです。この世は、ただ一度しか生きえず、すみやかに過ぎてゆきます。その中で、永遠を目指し、永遠に残るものの為に、働きたいものです。

28 節29 節「そこで彼らが、『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』と言うと、イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。』」イエス様を救い主として信じる。ならば、私たちは、救い主の為に、世に貢献する為に働く者となってゆきます。

ところが、群衆には、その意味が分からず、あくまでも、しるしのみを求めました。30 節31節「そこで、彼らは言った。『それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。【天からのパンを彼らに与えて食べさせた】と書いてあるとおりです。』」

イスラエルの民は、奴隷であったエジプトから、主によって脱出して、荒れ野に導かれまし

た。そして何もない場所で、男だけで60 万人、女性や子どもたちを加えたなら、約240 万人の人々が、天からのマナというパンやウズラの肉によって養われる奇跡が40 年に渡って続きました。出エジプト記16 章35 節「イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。すなわち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べた。」イエス様は、あくまでも肉体のパンの奇跡のみを求めている群衆に対して言われました。32 節33 節「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」

荒れ野において、マンナという糧を40 年間与えられた御方は、天の父なる神様であり、神の御子イエス様は、加えて、真の命を与える御方であると言われました。真の命とは、罪から来る報酬は死であることから、神の御子イエス様は、罪の赦しの為に、ご自分の命を十字架で与えて、赦しを与え、死から命へと変えられるお方です。

また私たちの人生が、真の命の為に働く者へと、造り変えられるところの命のパンです。そして御自身を信じる者に、永遠の命を与えるところの命のパンです。

コリントの信徒への手紙一15 章52~58 節「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

イエス様は、御自身を、天からの賜物として降らせたマンナになぞらえて語られます。父なる神様は、マンナを授けたように、真の命をもたらすイエス様を、私たちの世に遣わされました。ヨハネによる福音書34~40 節「そこで、彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』と言うと、イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。

父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。』」

群衆が、イエス様を追いかけたのは、パンの奇跡を見て、イエス様の本性を理解したからではありません。パンを食べた満腹感の故でした。それ故、イエス様は、5 千人いや2 万人の給食の奇跡の意味を語られました。私たちが、救い主イエス様に求めるものは何でしょうか。朽ちるこの世のものではなく、もっと根源的なものを求めているでしょうか。罪と死と永遠の命の解決、虚無と悪魔に打ち勝ち、希望と愛と赦しの為に、真の永遠の命のパンなる救い主イエス様を、私たちは求めているでしょうか。真実でないものを追い求める、誤った探求者ではなく、真の真理と真実の探究者となれますように。

主イエス様の為に成したことのみ、永久に残ります。それは主イエス様を信じ、良き愛の業をご聖霊によってなし、真理なるキリストを証しすることです。主のみこころを行うことだけが、天に宝を積むことです。主の御心とは、神様が意図された内容、神様の意志、神様の意向と御旨のことです。その為に、日々自分の魂が、霊の糧なる神様の御言葉によって養われることが必要不可欠です。

ただし、私たちの善行と愛の業の後に、救いが来るのではありません。イエス様による救の後に、善行と愛の業が続きます。先ず自分の罪を、神様の御前に言い表し、キリストを私の救い主、また私の人生の主として信じて受け入れることです。そして父なる神様は、私たち人間が悔い改めて御子を信じることと、日々の生活のことと、両方を支えるお方です。この主なる神様に信頼して、祈りつつ御聖霊の助けと力を受け、従って行きませんか。

お祈り致します。

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