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2022.4.3ヨハネによる福音書6 章1~13 節「イエス様は天からの永遠の命のパン」

牧師 松矢龍造


ウクライナにロシア軍が侵攻して、世界中が心を痛めています。国内に残り防戦する男性た

ち。国外に避難している女性や子どもたち。必要なのは、物理的なパンと共に、平和と希望ではないでしょうか。

かつて荒れ野をさ迷っていたイスラエル民に、主は物理的なパンと共に、御言葉による霊的なパンの必要を語られました。申命記8章3節「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

今日の御言葉は、四つの福音書の全てに記されている大勢の群衆に与えられたパンの奇跡で

す。四つの福音書の全てに記されているということは、大切な出来事であったということを示しています。

主イエス様は、神の国の福音を語られていましたが、人々の肉体の必要に関しても配慮なされるお方でした。当時ガリラヤ湖は、ティベリアス湖と呼ばれていました。それは、ユダヤがローマ帝国の植民地下にあり、ローマ皇帝ティベリウスの名にちなんで、ティベリアス湖と呼ばされていたのです。植民地下で、食べ物に不足していた時代です。ましてやヨハネによる福音書が記された時の初代教会は、ローマ帝国からの迫害によって、仕事にも、食にも欠けることが、しばしばでした。そんな中で、パンの奇跡は、迫害を受けているキリスト者たちの生活のことも、神の国と神の義を先ず求めなさい、そうするならば、主はすべての必要を与えてくださる。この全知全能の主なる神様の配慮を受け留めることになりました。

主キリスト・イエス様は、私たちが大きな困難にぶつかるとき、何を言い、どうするのかを見ようとして、しばしば私たちを試されます。そしてイエス様は、いつも最善の解決の道を知っておられるお方です。

それではもう一度6 章3 節「イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。」古代の教師は、通常、教える時に座りました。それは教師の権威を示すものでした。

5節6節「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。」ここで12 弟子の中で、どうしてフィリポに聞いたのでしょうか。フィリポは、イエス様たち一行がこの時、滞在していましたベトサイダ出身で、この地域のことが良く分かっている弟子であったことが先ずあげられます。加えて、フィリポの信仰を強くするために、彼を試しておられたのではないでしょうか。

地の利に長けていると、人間的な解決策を求めやすいです。しかしイエス様は、フィリポに求めることによって、人間的な解決策と、イエス様ご自身が行われようとされる奇跡の御業を際立たせることを思っておられたのではないでしょうか。イエス様がフィリポに本当に求めたのは、物理的なパンを求めたのではなく、この問題解決の為に、信仰を求められたと言ったのは、古代の神学者アウグスティヌです。

7節「フィリポは、『めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう』と答えた。」一デナリオンとは銀貨一枚であり、当時の労働者の平均的な日給の額でした。ですから二百デナリオンとは、銀貨200 枚、200 日分の賃金です。現在の単位では約200万円位でしょうか。加えて、たとえ200 デナリオンのお金があったとしても、男だけで5 千人、女性や子どもたちを含めたなら約2万人分のパンを、一時に集めることは不可能です。

8節9 節「弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。』」パレスチナでは、大麦は非常に安価な食材でした。大麦はおもに、家畜に与えられていましたが、非常時にはパンを作る為に使われました。まさに数だけでなく、本当に貧しいものしか、人間の側にはなかったということです。

10 節11 節「イエスは、『人々を座らせなさい』と言われた。そこには草がたくさん生えてい

た。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」

それでは、このパンと魚の奇跡を通して、神様は私たちに対して、何を語りかけておられるのでしょうか。

第一に、イエス様の時代から千年以上も前に、シナイ山から荒れ野の砂漠のような

ところであっても、神様はイスラエルの民に、マナとウズラを奇跡によって与えられたことがありました。そのことを想起させたのでしょう。旧約時代の時、イスラエル民は、約240 万人位でした。そしてイエス様の時代の民ばかりでなく、ヨハネの福音書を読んだ最初の人々である、迫害という荒れ野にいた初代教会に対しても、想起させたでしょう。

第二に、イエス様がパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられたことは、聖餐式を初代教会の人々は想い起こしたでしょう。主イエス様が、最期の晩餐で、御自身の肉と血に霊的に預かるなら、罪の赦しと永遠の命が与えられる。まさにイエス様は、天から来られた命のパン、永遠の命のパンであることを想起させるものでした。

第三に、イエス様は、奇跡を行われる時、普通は、人々を通して働かれることを選ばれます。その一つは、五つのパンと二匹の魚を持っていた少年です。そして群衆に分け与える為に、12 弟子の手が用いられました。特に、少年が用いられたことから、私は若すぎる。逆に年をとりすぎている。わたしには、そんな力はありません。そのように思っている人たちに対して、誰でもイエス様に仕えることはできないと、決して思わないように言われているのではないでしょうか。

イエス様は、私たちが差し出すことのできるものを何でも、受け取って下さり、私たちの予想以上に、その効力を増してくださいます。イギリスの一人の少女が求めた聖書の例があります。19 世紀の初め、ウエールスにメリー・ジョンスという少女がいました。かねがね信仰の念が厚く、しきりに聖書を読みたいという願いがありました。しかしその村には、聖書を所持する者が一人もいない故に、ひまを見つけては二マイル先まで行き、ある人の家で、二、三章ずつ読ませてもらっては帰って行くことをしていました。

しかしどうしてもそれでは満足ができず、一生懸命はたを織って、もうけた賃金のうちから、いくらかのお金を蓄えて、ついにその村から25 マイルほどある街まで歩いて行って、やっと一巻の聖書を買い求めました。これは彼女が16 歳の時のことでした。この彼女の熱誠は、数人の紳士を、いたく感動させ、彼らが打ち寄って評議した結果が、今日の大英国聖書会社の設立を見るに至り、以来そのおかげで、幾億万人が、「いのちのパン」である聖書にありつく機縁となったというのです。

少女一人の熱誠が、大きく神様に用いられていったのです。私たちの、どんなわずかでも、自分自身の持っているものを、キリストのところに持って行くことが大切です。神様は、私たちが、直ちに応じられる状態にしておくなら、神様は、私たちを大いに用いてくださるでしょう。

第四に、イエス様によって与えられる恵みは、新しい霊のイスラエルである教会にとって、十分に満たされるものであるということです。12 節13 節「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。」

12 という数字は、完全数の一つですから、残ったパンの屑で12 籠がいっぱいになったとは、まさにイエス様の恵みは、私たちに対して十分であるとの示しでしょう。そして神様は、有り余るほどのものを、私たちに委ねて下さっていることの表われです。時間、能力、財源において、私たちが思うより、神様は私たち一人ひとりに委ねておられます。

第五に、主イエス様は、政治的、軍事的なメシアではなく、神の御子キリストであり、私たち人類を罪の赦しと、滅びよりの救い主であるということです。ですから、誤ったメシア観を持つ群衆である時、主はひとりで山に退かれました。14 節15 節「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」あの預言者とは、神様の啓示を受け、神様の名によって語る、メシア・救い主と等しい権威を持つ、モーセに似た預言者ということです。申命記18 章15~18 節「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、『二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください』とあなたの神、主に求めたことによっている。主はそのときわたしに言われた。『彼らの言うことはもっともである。わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。』」本当のメシア観をもって、主の御言葉に、聴き従うことが大切です。

最後に、イ・チャンスという方の「関係を回復させる福音」という内容を受け留めます。「キリストの福音は、自分が何かを行ったか、行わなかったかという問題ではありません。神様との関係を回復させてくれるものです。なぜ、この世に罪が入って来たのでしょうか。人が神様に拠り頼む心を捨てて、神様から独立しようとした結果、罪が入って来たのです。ですから、恵みとは、十字架を通して神様との関係が回復することを意味します。恵みは、関係の回復の問題であり、委ねるかどうかの問題です。自分の力で解決しようとしてあがくのは、福音ではありません。力が入っているなら、恵みではありません。恵みは、自分は十字架によって、価なしに義を着せて頂いた存在だということを、徹底的に知ることです。律法を行う熱心さではなく、神様だけに拠り頼み、神様に自分の人生を委ねることが、真の恵みの人生なのです。」

主に愛されている皆さん、フィリポのように、自分の力で解決しようと、あがくのでなく、神様とその口から出る命のパンに養われながら、自分の人生を主に委ねてゆく、恵みの人生を歩んでいきませんか。

お祈り致します。

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