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2022.4.6民数記35 章1~34 節「逃れの町であるキリスト」

牧師 松矢龍造


古代オリエントの慣習によれば、不当に殺された者の親族は、「血の復讐」をすることが許されるばかりでなく、またそれが要請されました。しかしこのやり方に従えば、報復と復讐とは、際限なく続けられる可能性があります。

そこで、少なくとも、過失による殺人については、公正な裁判が開かれるまで、早急な報復は留保されるべきであり、手立てが講じられる必要があります。しかし故意の殺人者については、生命の保証は与えられず、すぐに同害報復法が適用されます。

出エジプト記21 章12~14 節「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。ただし、故意

にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼をわたしの祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる。」

35 章22 節では、「敵意」と訳された言葉は、「待ち伏せ」あるいは「悪意」や「故意」という意味でもあります。当時は、被害者に一番近い親族の男性に、復讐する権利がありました。もし裁判において有罪となった者は、たとえ逃れの町にいても、逃れの町から連れ出されて、死刑となりました。無罪の場合は、逃れの町に留まることがでは、親族の復讐から守られました。

申命記19 章2~6 節「あなたの神、主があなたに与えて得させられる土地のうちに三つの町を選び分けなさい。そして道のりを測り、あなたの神、主があなたに受け継がせられる領土を三つに分け、人を殺した者がだれでもそこに逃げられるようにしなさい。意図してでなく、積年の恨みによるのでもないのに、隣人を殺してしまった者が逃れて生き延びうるのは、次のような場合である。

すなわち、隣人と柴刈りに森の中に入り、木を切ろうと斧を手にして振り上げたとき、柄から斧の頭が抜けてその隣人に当たり、死なせたような場合である。彼はこれらの町の一つに逃れて生き延びることができる。復讐する者が激昂して人を殺した者を追跡し、道のりが遠すぎるために、追いついて彼を打ち殺すことはあってはならない。その人は、積年の恨みによって殺したのではないから、殺される理由はない。」

逃れの町は、レビの町の中にありました。レビ人には、一族全員が住むような土地は、割り当ての地に与えられませんでした。申命記10 章9 節「それゆえレビ人には、兄弟たちと同じ嗣業の割り当てがない。あなたの神、主が言われたとおり、主御自身がその嗣業である。」

レビ人は、聖所での務めにおいて、全イスラエルを代表し、主のそば近くにあるという霊的な祝福を最大の賜物として、相続するように指示されていました。レビ人は、他の部族の人々のように、産業に従事せずに、もっぱら宗教上の義務に服することが、主によって定められていました。そして他のイスラエルの部族の人々が、聖所に捧げる奉納物によって生計は維持されました。

現代では、牧師とその家族は、人々によって捧げられる献金の中から、産業に着くことなく、主にあって教会と人々に、お仕えすることが出来ます。

レビ人は、12 部族の全てに散らされて住みました。レビの町は、各部族に平均して4つずつ、合計48 の町が与えられました。そして48 のうち、13は、大祭司の為に、残りの35 は、レビ人のものとされました。レビ人が、各部族に散らされた理由は、国中に宗教的、信仰的感化を与える中心となる為でした。レビ人たちは、主を恐れ敬う姿勢を生活において証しをし、律法を教え、そして民の為に、執り成しの祈りを捧げました。

同じように、新約時代のキリスト者は、霊的なレビ人として、世界各地に置かれています。そしてその場所において、信仰的な感化を、主にあって人々に与えてゆく存在です。キリストにあって愛の業をなし、御言葉を証しし、人々の救いの為に、執り成しの祈りを捧げる万人祭司の務めです。次に、レビ人の町は、ヨルダン川の東に三か所、西側に三か所、合計六ケ所に逃れの町が設けられました。これはモーセを通して、主が命じられたことによります。事故であれ、故意であれ、人の血が流されることは、律法に反することです。出エジプト記20 章13 節「殺してはならない。」そして地が流された土地は汚れました。民数記35 章33 節「あなたたちは、自分のいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血は、それを流した者の血によらなければ、贖うことができない。」

そこで加害者と土地を清める為に、罰が与えられ、献げ物が捧げられなければなりませんでした。しかし血を流したことが、故意であったのか否かによって、罰のあり方が異なりました。逃れの町は、過って人を殺して血を流した人を守る為に定められた町です。

しかし逃れの町を出てしまうなら、命の保証がなされませんでした。そして大祭司が死ぬと、もとの土地に戻ることが出来、そこで殺されることもありません。それは、大祭司の死は、在任中に殺された被害者の血を贖うのに十分なものと見なされたためでしょう。

そしてこの逃れの町は、15 節「だれでも」とあります。イスラエル人だけでなく、イスラエルに住む外国人や、この地を旅する人も含まれていました。そして世界中の「だれでも」と適応できるでしょう。この逃れの町の存在から、新約時代に生かされている私たちにとって、信仰的、霊的な教えがいつくかあります。

第一に、救い主イエス様が、新約的な逃れの町であるということです。ヨルダン川を挟んで、イスラエルの民の住む、東西三か所ずつに逃れの町があり、どこからでも、数時間でイスラエルに住む人々は、いずれかの逃れの町に行けました。同じように、罪人なる私たちは皆、イエス様の名を呼び、その恵みの内に走り入り、神様の裁きの御怒りを逃れることが出来ます。イエス様は、私たちのすぐ近くに霊的にいて下さいます。詩編46 編2 節「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」そして、いつどこでも、主イエスに逃れ行くことが出来ます。コリントの信徒への手紙二6 章2 節「なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」

第二に、大祭司の死後、もとの地に戻ることが許されました。同じように、大祭司なるイエス様が十字架において流された血によって、私たちの罪が贖われ赦されたということです。本来は、罪に対して、私たち自身の血が流され、死ななければなりませんでした。それが大祭司なるイエス様の流された血と、身代わりの死によって、私たちの命が滅びから救い出されたのです。何という憐れみと御恩寵と愛でしょうか。

第三に、たとえ故意でなくても逃れの町に行ったら、罪は言い表して悔い改めなければなりません。ヨハネの手紙一1 章8 節9 節「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」

第四に、罪自体には寛容であってはなりませんが、被告人には、公平な裁判を受けさせなければなりません。悪事を見過ごすことも、罪について、結論を急ぐことも、両方とも理にかなったものではありません。

第五に、私たちの隣人に対して、逃れの町である救い主イエス様のことを証しするということです。ヘブライの信徒への手紙9 章11 節12 節「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

そして第六に、大祭司キリストのうちにいれば安全ですが、主の御手を離れれば、命を失います。そしてわざと故意に、心を頑なにして、キリストの十字架を受け入れないなら、どうすることも出来ません。ヘブライ人への手紙10 章28 節29 節「モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。」

第七に、単に殺人の罪を犯すことだけが罪ではありません。イエス様はマタイによる福音書5 章21 節22 節で、次のように言われました。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」心の中での殺人が言われています。そして、その人の存在を主にあって生かすことも同時に求められています。

主の恵みによって罪が赦されたなら、私たちも主の憐れみと恵みを受けた者として、あるがままで、そのままで、家族や隣人の存在を受け入れ、赦し、愛することが、ご聖霊の実によって出来ますように。エフェソの信徒への手紙4 章30~32 節「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」

最後に、ホン・ミンギという方の「神様の切り札」という内容を受け留めます。「すべての人が崩れてしまうような状況でも、決して崩れない信仰の人がいます。また、神様を恨みそうなときでも、そうしない人々もいます。深い祈りの実は、祈った人の信仰の変化であって、状況の変化ではありません。信仰の人は、問題を見つめず、天の御国の望みに目を向けます。私たちも、この時代に神様が切り札として出すことのできる信仰の人になりましょう。

敵に隙を与えないようにしましょう。悔しい時に怒りをあらわすなら、怒りは毒薬となり、あなたの霊的な感覚を麻痺させます。しかし、敵から目を離し、あなたともにおられるイエス様の手を握るなら、同じ状況でも讃美を口ずさみ、勝利することができるのです。」

主に愛されている皆さん、逃れの町なる主イエス様の赦しの恵みに生かされ、生きて行きませんか。

お祈り致します。

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