2022.5.1ヨハネによる福音書6 章41~59 節「イエス様を霊的に食べるなら永遠に生きる」
- CPC K
- 2022年5月1日
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牧師 松矢龍造
起
キリストの肉を食べ、血を飲むと言われたなら、皆さんは、どのように思われるでしょうか。今から1900 年位前の初代教会の時代、クリスチャンでない人たちは、キリストの肉を食べ、血を飲むと聞いて、誤解をした人々がいました。それによれば、クリスチャンという人たちは、キリストの肉を食べ血を飲むと言う、実に野蛮な人たちであると言われた時代がありました。
もちろん、イエス様が言われことは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は」と言われていたことは事実です。しかしそれは、イエス様を信じることを、象徴的に表現したものでた。古代の著名なアウグスチヌスは、「信じたということは、食したということである」と言っています。
私たち人間にとって、食べることや飲むことは、最も日常的で、分かりやすい事です。それほどに、神の御子イエス様を、私の救い主として信じることは、日常的なことであり、最も分かりやすい表現が、食べることや飲むということだったということでしょう。
承
キリストを信じた人は、水で洗礼を授け、聖餐式に預かります。信じることや信仰というのは、ある面で、物理的に見えることではありません。それ故に、信じるということは、実に弱い面があります。自分が信じていることや、神様が共におられること、また罪が赦されて、神の子どもとされていることを、弱い私たちを配慮して、私たちの肉体に触れるもので確信させてくださいます。そして力強く信仰生活を生きて行けるように、神の御子キリストは、洗礼と聖餐式を制定して下さいました。
洗礼を通して、水が私たちの肉体に触れます。また聖餐式を通して、パンとぶどう液が、私たちの肉体に触れ、体の中に入って行きます。そして信仰はまさに、日常の現実的な事であることを、私たちに実感させてくれます。
転
イエス様は、今日の御言葉を会堂で教えられました。6 章59 節「これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。」会堂とは、原文でシナゴグですが、集まる行為や、集まった会衆という意味です。会堂には、神殿のような祭司職はなく、礼拝プログラムや聖書の朗読者と説教者の斡旋は、会堂司と呼ばれていた人が担当しました。そして信仰と霊的な指導には、長老と呼ばれる人たちが担当しました。
会堂という形態は、ユダヤ人が、バビロンの捕囚になった後に、ユダヤ教に出来た制度です。会堂は、ユダヤ人のいる都市部には、ほとんど例外なく建てられました。
それでは、今日の御言葉をもう一度、6 章41 節42 節「ユダヤ人たちは、イエスが『わたしは天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、【わたしは天から降って来た】などと言うのか。』」
マリアの夫ヨセフは、ナザレ出身のユダヤ人で、大工でした。ルカによる福音書では、ヨセフの先祖の名前を挙げて、ナザレ近郊の人々は、誰もがイエス様を、ヨセフの子だと思っていました。しかし神の御子イエス様は、ご聖霊によって、マリアの胎に宿ったのであって、ヨセフは養父に過ぎないです。けれどナザレ近郊の人々は、ヨセフの実の子ども以外の存在であると、誰も思ってはいませんでした。
そこでイエス様は言われました。43 節44 節「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」
信仰には、二面性があります。一つは、父なる神様が、その人をイエス様のもとに引き寄せてくださらなければ、誰もイエス様のもとに来ることが出来ないということです。そこには父なる神様の愛による選びと、神様の主権があります。そして信仰にはもう一面があり、私達人間の側が、自由意志をもって、イエス様を信じるという応答責任があるということです。
いわば神様の主権と、私達人間の自由意志、この二つを同時に理解することは、人間の理性では出来ません。しかし聖書と、イエス様の言葉は、信仰にはこの二面性があると言われているので、それを素直に信じるだけです。
45 節46 節「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」
旧約聖書の幾つかには、神様によって、人々が教えられると預言されて来ました。イザヤ書54 章13 節「あなたの子らは皆、主について教えを受け、あなたの子らには平和が豊かにある。」主の教えを受ける者に、平和が作られてゆきます。
エレミヤ書31 章34 節「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」
5
ミカ書4 章2 節「多くの国々が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。」
イエス様は、天におられて、ただ一人、父なる神様を見たお方です。そして父なる神様に引き寄せられる者は皆、主イエス様の教えを素直に聴く為に、イエス様のもとに来ます。
47~51 節「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
イエス様は、旧約聖書の中にあった、罪が赦される為の子羊の血と肉のことを取り上げながら、御自身が十字架上での死を通して、私達人間の罪の身代わりとなって死に贖われることを語られました。そしてこの十字架にかかられるイエス様のことを信じて、聖餐式に預かることを続けて語られました。
聖餐式において、私たちの過去、現在、未来の三つのイエス様を覚えることが大切です。過去というのは、イエス様の私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり、死にて葬られ陰府に降り、三日目に復活された事実を覚えることです。また現在とは、聖餐式の時のみ、パンとぶどう液は、霊的にキリストの体となり、それを食する者は、霊的な永遠のキリストの体を霊的に食し、霊的にその血と命を飲んでいることを覚えることです。
そして未来とは、肉体の死後に復活させて頂いて、天の御国に入れられ、イエス様と共に、天の祝宴に預かる希望を覚えるということです。
これらのことは、父から引き寄せられた人は分かりますが、そうでなければ、あくまでも誤解したままに止まります。52~57 節「それで、ユダヤ人たちは、『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」
私たちが食べたり飲んだりするように確かに、イエス様を信じるなら、その人の罪は赦され、永遠の命が与えられます。そして天の御国に入ることが出来、この世で死の解決を与えられ、主イエス様の為に生きるように変えられて行きます。
58 節「これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」旧約時代のイスラエルの民が食べたマ
ナという食べ物は、いくら食べても、肉体の死を止めるものではありませんでした。物理
的なパンをいくら食べても、肉体の死は来ます。しかしイエス様を信じて、霊的にイエス
様の霊の体を食する者は、永遠の命が与えられ、永遠に生きます。
結
人は、神様の御言葉と、ご聖霊によって、神様に引き寄せられていきます。そして主イエス様を信じる全ての人は、終わりの日に復活します。そして信じた人たちは、聖餐式を通して、イエス様と霊的に近しさ、親密さを感じながら、相互内在性を実感してゆきます。「私の内にイエス様がおられ、イエス様の内に私がいます。」そして恵みと導きの中で生かされて行きます。
永遠に生ける父なる神様と、生ける御子イエス様。そして私たちもご聖霊によって、生けるキリスト者とされてゆきます。39 節、40 節、45 節、54 節と四度も繰り返して強調して言われているのは「終わりの日に復活させる」です。山室軍平という方が次のように言われます。「イエス様に救われた者が、この世のいのちだけでなく、いつまでも死なない命を継ぐことを、約束されたものである。ビクトル・ユゴーが、かつて言った。『わたしが墓に下る時、わたしは多数の人と同じように、わたしの一日の業が終わったと言いえても、わたしの一生が終わったとは言えないでしょう。わたしの勤めは、翌朝ふたたび開始するはずだからです。墓は行き止まりではなくて、通り抜けです。夕方に門を閉ざすのは、夜明けに開かれる為に過ぎませ。』
イエス様を信じる者にとって、墓は永遠に至る門であり、永遠の始まりに過ぎません。そのことを思いつつ、主イエス様を讃美し、主イエス様の十字架と復活を、隣人に告げ知らせて行きませんか。最後にコリントの信徒への手紙一11 章23~26 節を拝読して閉じます。
「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、
主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、
あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言
われました。
また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新
しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われまし
た。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、
主の死を告げ知らせるのです。」
お祈り致します。

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