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2022.5.22ヨハネによる福音書7 章14~24 節 「主イエス様の御言葉の真実性」

  • 執筆者の写真: CPC K
    CPC K
  • 2022年6月4日
  • 読了時間: 7分

牧師 松矢龍造


神の御子イエス様のことを知るには、二重の神認識のあり方があります。それは知らないと信じられないという面と、もう一つの面は、信じないと知ることが出来ないということです。

イエス様が、神の御子・救い主であると信じない人たちは、イエス様のことが分かりません。イエス様が、正式な学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなにもよく知っているのか。またどうしてこんなに奇跡の業を行うことができるのか。そしてどうして、安息日に、全身の癒しの業を人々に行われるのか。分からないのです。そしてうわべだけで、裁いてしまうのです。

チョ・ジョンミンという方が「愛のない批判」という題で、こんなことを言われていました。「『私は一目見れば、その人のことが分かる』と言う人は、高慢な人です。そのような態度は、罪の中でも最も大きな罪です。神様のほかに、だれが、ほかの人を完全に分かると言えるでしょうか。一人の人の人格は、その人が築いてきた人間関係や環境などによって形成される複雑なものです。その人が、そのように生きるしかない理由、そのように考えて発言し、行動するしかなかった理由があるのです。

アメリカの先住民のことわざに、『その人を知ろうと思うなら、彼の靴を履いて20 ㎞を歩いてみよ』という言葉があります。その人と同じ環境で過ごさない限り、決してその人を理解することはできないという意味です。

彼らのある部族は、友達の家に行くと、何も言わずに友達が生活をしているのをじっと見て、何も言わずに帰るそうです。彼らにとって友達とは、自分の生活をありのまま見守ってくれる存在なのでしょう。私たちも、人と接する時、その人について、早急に評価してはいけません。その人がどのような人なのかは、神のみぞ知ることです。自分のものさしで、人を判断することこそ、罪の中の罪です。

人を批判してはならない重要な理由は、批判している間は、その人を愛することが出来ないからです。愛のない批判は、人間の限界と罪によって育った毒草です。愛は攻撃を中止させ、武装解除させます。主イエス様がそうであったように、私たちは人との関係の中で、人を批判する前に愛を選択しなければなりません。」

この世に愛や同情がない批判くらい、人を誤らせるものはないでしょう。同じように主イエス様が、どのような方であるか。早急に判断してはなりません。またうわべだけ裁いてもなりません。聖書66 巻の全てから、祈ってご聖霊の照明の光を頂いて、イエス様を見てゆくことが、誰にでも必要です。

イエス様は、仮庵祭が既に半ばになったころ、エルサレムにありますユダヤ教の礼拝の中心である神殿に上って行かれ、教え始められました。仮庵祭の期間は一週間なので、4日目くらいになった時に、イエス様は行かれたことになります。イエス様は、前回では、母マリアの子どもたちである兄弟たちの意図には同意されなかったので、一緒にエルサレムに上って行くことをしませんでした。

しかし祭りの半ばになった頃、別の目的を持って、エルサレムに上って行かれました。イエス様は、世的な政策に動かされたのではなく、父なる神様の御心によって導かれて、祭りに行かれました。むしろその時を待たれたということです。神の御心と、神の時があるということです。イスラエルの三大祭りの際には、その期間に多くの人々が、エルサレムを訪れ、神殿で犠牲を捧げに来ていたので、イエス様は、大勢の人々に、神の国と福音について、語りかけ、教えることが出来ました。16 節「イエスは答えて言われた。『わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。』」

主イエス様を、天から地上にお遣わしになった方は、父なる神様です。そして父なる神様は、先ず天から律法を語られました。この律法には、イスラエルの民や人類が、いかに生き、創造主にして救い主なる唯一の神様をどのように礼拝すべきかの教えが含まれていました。イエス様は、この律法を破棄する意図はなく、どうすれば、私たちの人類の人生が、恵みと真理で満たすことが出来るかを示されました。

17 節「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。」

神様の真理は、神様の御言葉に服従してこそ分かるものであり、従う時に、さらに多くの神様の真理を悟り得ます。すでに与えられた光に従って歩む者は、さらに大いなる光が与えられる。これが神の国の法則です。ある方がこのように言われます。「私たちが、怠った義務は、一つ一つそれによって学ぶべきある真理を隠ぺいする。」あるいは「私たちが、義務と認めることを行わないばかりに、私たちは、いっそう高いものを見得ないのである。」ユダヤ人の多くは、神様の御心を行おうとしないので、イエス様のことを理解出来ないのです。本来、従順こそ、霊的な知識に至る道です。

18 節「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」神の栄光と訳された原文の言葉は、神様の聖、義、愛、贖罪と救いなどの業の卓越性のことです。自分の栄光を求める者には、不信実であり、不義があります。しかし神様の栄光を求める者は、真実な人であり、不義がありません。

19 節20 節「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。群衆が答えた。『あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。』」

律法には、「殺してはならない」とあります。であるのに父の栄光を求めるイエス様を殺そうとするのです。このユダヤ人たちの殺意は、論理でなく感情です。その場合、論理は後から組み立てられるのであり、それは屁理屈と呼ばれるものです。そしてまだ民たちは、ユダヤ教の指導者たちが、イエス様を妬みから殺そうとしている本当の意志を知らないでいたのです。

21 節~23 節「イエスは答えて言われた。『わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが。だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。』」

イエス様は、先にベテスダの池で、安息日に、病気の人に対して癒しの業をなさいました。すると人々は、安息日に、仕事をしたとイエス様を責めました。けれど割礼は子どもが生まれてから8日目に施します。それがたとえ安息日でも、8 日目であるなら子どもに割礼を施しても、モーセの律法を破ることにはなりません。

イエス様は、安息日に割礼を受けることが許されているなら、体の不自由な人を、イエス様が癒されたように、体全体に関わることも認められるべきだと主張されました。

人間性の部分的な回復を象徴する割礼が安息日にも許されるなら、全身を癒すことをしても、モーセの律法を破ることにはなりません。イエス様は、安息日においても、癒しを必要な人々に、憐れみを示されただけです。まさにユダヤ当局の人々は、律法もイエス様のことも、うわべだけで裁いて、正しい裁きをしていませんでした。

最後に、キム・クァンソンという方の「神様が私のブレイン」という内容を受け留めます。「組織や共同体の中には、脳の役割を果たす、いわゆる『ブレイン』と呼ばれる存在がいます。この『ブレイン』の提案を中心にして、共同体が回ってゆくのです。その人がどんな人であるかによって、その共同体の運命が分かれることもあります。

そのため、大抵は頭の良い人、秀でた人が、この役割を任されます。しかし、いくら頭が良くても、間違いを犯します。私たちの社会を苦しめ、問題を起こし、積み上げた塔を一瞬して崩してしまう人を見てください。彼らは、たいていは学歴もよく、難しいと言われる試験に合格し、サクセスロードを走ってきた人たちです。

自分の頭脳と能力を信じ、自分で切り開いていく人生は、一見何の問題もなく見えるかもしれません。しかし、その結果、良いものではありません。私たちの『ブレイン』は、神様です。神様が私たちの頭となってくださいます。からだに問題が生じたとき、脳は警告センサーを活性化させます。同じように、霊的な問題が生じると、神様は、その問題を感知して教えてくださり、私たちが積極的に反応して処理できるように助けてくださいます。

人生の目標を正し、それをどうやって成し遂げていけるか教えてくださいます。ですから、いくら自分の頭が良くても、私たちが神様を頭としなければなりません。神様を正しく知れば、自分がどんなに小さいかが分かるので、自然と頭が下がります。大事な決定を下すべきとき、また、誰かを訓戒しなければと思うとき、自分の『ブレイン』である神様の御言葉に聴き従わなければなりません。」

神様に愛されている皆さん、自分のうわべだけの判断ではなく、神様の言葉に聴き従い、イエス様の知恵とご聖霊によって判断して、人生の日々を、神様と人を愛することに用いて行きませか。お祈り致します。

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