2022.5.29ヨハネによる福音書7 章25~36 節「父なる神様のもとから遣わされた神の御子」
- CPC K
- 2022年6月4日
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牧師 松矢龍造
起
イエス・キリストが、どのような方であるか。その結論は、永遠の結果をもたらします。神の御子イエス様が、地上に来られた際の、人々の反応は様々でした。「良い人」という者もあれば、「詐欺師」「悪霊につかれている人」「メシア・救い主」「モーセによって預言された預言者」と呼んでいました。
それぞれの思いの中で、イエス様に対する思いが分かれました。ある人たちはイエス様を「メシア・救い主」と信じましたが、ある人たちは、イエス様を殺そうとして捕えようとしました。またある人々は、イエス様が言われたことは、どういう意味か分からないので、評価のしようがない人々もいました。それでは、私たちは、どのグループに属する者でしょうか。
承
当時のユダヤ人たちの一般的な考えでは、メシア・救い主が到来する時には、突如とし
て、しかも神秘的な方法で現れるとしていました。ですから、メシアは人の目に隠れた存
在という思想がありました。さらに天からメシアが降りて来るとの神話を信じる人もあり
ました。
それは、旧約聖書の預言を無視している人間の憶測に過ぎません。旧約聖書ミカ書5 章
1 節にはメシアの誕生する地が預言されていました。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユ
ダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が
出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」
憶測や偏見で、神様の真理を拒むことがありませんように。かつて「ベンハー」という
映画を作成した人は、無神論者であり、イエス・キリストを信じていない人でした。そし
て聖書を研究して、神の存在やイエス・キリストを信じることの愚かさを証明しようとし
ました。ところが、聖書を読み研究しているうちに、神の存在と、イエス・キリストを信
じる信仰に導かれ、イエス様を証しする映画「ベンハー」を作成する人に変えられて行き
ました。憶測ではなく、聖書を読み探求して、判断することが大切です。
転
それでは今日の御言葉である7 章25~27 節をもう一度拝読します。「さて、エルサレム
の人々の中には次のように言う者たちがいた。『これは、人々が殺そうとねらっている者で
はないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシ
アだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、わたしたちは、この人がど
この出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知ら
ないはずだ。」
まさにエルサレムの人々は、憶測と偏見の中にあったことが分かります。そしてナザレ
にいたヨセフの子イエスとして出身を知っていると言っています。ご聖霊によってマリア
の胎に宿って生まれた神の御子・救い主として信じることが出来ませんでした。
28~30 節「すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。『あなたたち
はわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来
たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知ら
ない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方が
わたしをお遣わしになったのである。』」
仮庵祭でエルサレムの神殿に来ている人々に対して、イエス様は、天の父なる神様から遣わされた者であると言われました。イエス様の地上での出身は知っていても、天の父なる神様から遣わされた、天からの視点を持っていない民衆であると告げました。
私もかつては、イエス様のことを知りませんでした。主の恵みと、ご聖霊の助けがなければ、私も分からない者、あるいは反対する者であったでしょう。主の憐れみと御聖霊の光の中で、イエス様を、天の父なる神様から遣わされた神の御子・救い主と信じることが出来ることは、なんたる幸いなことでしょうか。
30 節「人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時は、まだ来ていなかったからである。」イエス様の時とは、イエス様の十字架での死と復活の時のことであり、神の御子として、真の栄光が現れる時のことです。その時、神様の時は、まだ来ていませんでした。ですから、この時、イエス様を捕えようとしても、失敗に終わります。誰も神様のご計画を阻止することは出来ません。
31 節32 節「しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、『メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか』」と言った。ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。」
ファリサイ派の人々とは、律法の中でも、特に安息日や断食、あるいは施しを行うこと
や、宗教的な清めを強調する人々のことです。律法学者の多くが、このファリサイ派に属
していました。また祭司長たちとは、エルサレムにあります神殿の職務を任された人々の
ことです。そして下役とは、神殿を守り、エルサレムのユダヤ指導者会議である最高法院
が、民衆を統治するのを助けている人々でした。
いわばユダヤ教当局は、群衆の中で、イエス様を信じる者が大勢いることを聞くや、イ
エス様を捕える為に下役を遣わしました。するとイエス様は言われました。33 節「今しば
らく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰
る。」
イエス様は、父なる神様と同等であり、天で共におられたところから、地上に遣わされました。そして父なる神様のもとから来られて、また父なる神様のもとへ帰られる。それがイエス様の真の姿です。
34 節~36 節「『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる
所に、あなたたちは来ることができない。』すると、ユダヤ人たちが互いに言った。『わた
したちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。』
ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでも
いうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、
あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。』」
イエス様のことを捜しても、見つけることができないとは、二つの意味で言われたと思
われます。一つは、主イエス様が地上から天に昇られるので、お会いすることが出来ない
ということです。そしてもう一つは、不信仰と邪悪の故に、天で主イエス様とお会いする
ことが出来ないということです。
続いて、人々が、「ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア
人に教えるとでもいうか」言っています。これは結果的に、ギリシア人にも、後に宣教が
及ぶことの預言ともなりました。離散しているユダヤ人とは、古代世界に広く活躍してい
た、いわゆる離散のユダヤ人であるディアスポラのことです。またギリシア人とは、ユダ
ヤ人でない異邦人のことです。
いわば離散しているユダヤ人も、ギリシア人も、ギリシアの習慣に従う人々です。皮肉
にも、ユダヤ当局がイエス様を拒絶することによって、キリストの福音が異邦人世界にも
及んで行きます。神様は御摂理の主であり、万事を益とされるお方です。
それにしても、あくまでもイエス様を拒む姿が、ここにあります。古いことわざに「こ
とさらに見ない人ほど盲目はない。」あるいは「見ようとしてない人ほど、盲目な人はいな
い」。知らない、分からないのではなく、信じたくないから、信じないのです。生まれなが
らの人間は、神様の御霊に属することを受け入れません。
コリントの信徒への手紙一2 章14 節「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」
時のある間に、主イエス様を求めましょう。知ることから始まり、悟り、弁え、確か
め、認め、信じる。これらは、ご聖霊の助けを祈り求めることが不可欠です。コリントの
信徒への手紙一2 章10~13 節「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示
してくださいました。
“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれ
が、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいませ
ん。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神
から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのでは
なく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを
説明するのです。」
結
誰もが、ご聖霊によってはじめて分かるのですから、分からないでいる人や、反対する
人々に対して、信じている人々は、高ぶることも、自分を誇ることも出来ません。むし
ろ、主の恵みの中で、分からない人々や、反対する人々が、理解し、信じることか出来る
ように、ご聖霊の助けを求めて祈りましょう。また弁証してゆきましょう。
その人が、信じるか否かは、その人と神様の責任です。しかしその人が信じられないよ
うになっている否定的な内容に対して、弁証、弁明することは、すでに信じている人々の
役割であり、責任です。
最後に、マイケル・ウェルズ」という方の「イエス様が答えです」という内容を受け留
めます。「今の時代の人々は、数えきれないほどの質問と、その答えを求めて混乱していま
すが、イエス様に目を向けないので、真の答えを見つけることができません。彼らのほと
んどは、敵対心と挫折感の虜となっています。
真の答えを探し求めて、さまようものの、偽物の答えにぶつかるだけなのです。彼ら
は、一つの箱の上に立って、数え切れない箱を見下ろしているようなものです。答えが入
っている箱の上に立っているのに、足下を見ないので、ずっと違った箱ばかり開け続けて
いるのです。
イエス・キリストだけが、すべての人生の土台であり、答えです。イエス様を見出しさ
えすれば、すべての混乱は、跡形もなく消え、目の前が明るくなり、平安が与えられま
す。しかし、人生からイエス様を排除するなら、混乱して答えを見つけることはできませ
ん。苦しみつつ忍耐し、自分の力で限りなく努力し続けるだけです。しかし、真の来知恵
である『キリスト』を受け入れた人は、混乱したり、さまよったりしません。
光のない洞窟の中に入ったことがあるでしょうか。真っ暗な洞窟は、明かりがなければ、自分の目の前も、自分の手も見えません。私たちの人生は、洞窟のようなものです。
今すぐ明かりを手に入れれば、真っ暗な洞窟でも、探索を楽しめるのに、なぜさまよって
いるのでしょうか。生涯、答えを求めながらも、数えきれない質問の迷路の中で、迷い続
けますか。それとも、答えであるイエス様を受け入れ、人生の質問に向き合いますか。ク
リスチャンは、『はい!』と答えて、すべての質問に向き合う人々です。それが救いなので
す。」
神様に愛されている皆さん、イエス様こそ、あらゆる問いの答えです。あらゆる混乱の答えです。そしてあらゆる悲惨さの中での、真の平安です。この全知全能の父なる神様から遣わされた神の御子を、聖書とご聖霊によって見出し、信じて救いを頂きませんか。そして、まだ救われていない人々に、ご聖霊の力によって、主イエス様の証人となってゆきませんか。お祈り致します。

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