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2022.5.8ヨハネによる福音書6 章60~71 節「ふるいにかけられる弟子たち」

牧師 松矢龍造


世の終末の様相が一つ一つ出てきています。コロナ禍、地震、ロシアのウクライナ侵攻と戦

争、自然災害、愛が冷えるなど、命の危機が少しずつ増しています。これらの中で、主イエス様による真の命に対する求めが、さらに強くなりますように。そして物理的な危機だけに終わることなく、これらを通して、創造主なる神様との霊的な面と、永遠の命のこと、そして神の国に関して、世界中の人々の心がさらに開かれることになりますように。

今日の御言葉の中に、魂の大切さを忘れ、ひたすらに肉につかえる者のことが記されていま

す。それはまるで、子どもと、子どもの着物の二つがある時に、子ども自体の世話をすることなく、子どもの着物だけを気にしているよう者であったらどうでしょうか。子どもの着物はきれいなままでも、子ども自体の心が荒れてゆくなら、どうでしょうか。

悪魔は、創造主なる神様が造られた天使の一人と考えられています。ところが堕落して悪魔になったと言われています。天使として良き働きを期待されて造られたのに、創造主なる神様に背き、偽りの父となってしまったサタンです。

またイスラエルが二つに分かれて、北イスラエルと南ユダとなりました。北イスラエルが最初に堕落して、アッシリア帝国によって滅ぼされました。それを見ていたのに、南ユダも、堕落してバビロン帝国によって滅ぼされてしまいました。期待されていたのに、良い実を結ばなかった、北イスラエル、そして南ユダです。

さらに12 使徒の一人として良い働きと実を期待されていながら、イエス様を裏切り、悪しき

実を結んでしまうイスカリオテのユダがいます。

そしてイエス様が十字架に向かわれる中で、弟子たちは、ふるいにかけられ、離れて行く弟子と、留まる弟子に分かれてゆきます。私たちは、どちらなのでしょうか。イエス様を拒絶して離れる者なのでしょうか、それとも、もっと理解したいという誠実な探求者なのでしょうか。

それでは今日の御言葉である6 章60 節をもう一度「ところで、弟子たちの多くの者はこれを

聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』」

イエス様が「キリストの肉を食べ、キリストの血を飲む」と言われた言葉に、つまずく弟子たちが出てきました。彼らは、イエス様の言葉に対して、難解でおかしなことであり、不快感を覚えました。彼らはすでにイエス様の弟子として、主イエス様に従った者たちでした。しかし肉につける者たちで、イエス様が言われた霊的な奥義を理解できませんでした。食べ飲むということは、霊的な意味で信じることを言われていました。

このイエス様の言葉に対して、不快感を覚えた弟子たちは、しかもへりくだって、この意味を啓示されることを求めようともしませんでした。そして主の言葉に対して、批判的に聞いて、つぶやいているだけでした。自分の無知なことを知って、まだ知らない深い真理や、難解な高くて深い奥義を、ご聖霊によって教えられることを求める。そのような態度をとらない者は、おそかれ、早かれ、つまずくでしょう。

61 節62 節「イエスは、弟子たちがこのことについて、つぶやいているのに気づいて言われ

た。『あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば』」イエス様が、私達人類の罪の身代わりとなって、十字架に付けられ、死にて葬られ、三日目に復活されて、元おられた天に上るのを見たなら、どんな思いとなるでしょうか。63 節「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」全ての霊的な新生は、神様の霊によって始まり、神様の霊によって終わります。ご聖霊なる神様の働きがなかったなら、私たちは、自分たちに新しい命が必要であることを知ることは出来ません。私たちの肉は、真の命を与えることは出来ません。御聖霊のみが、霊的な命を与えることがお出来になります。主イエス様を信じて、ご聖霊を受けてこそ、主から真の霊的な命を受けることが出来ます。

64 節「『しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。』イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。」そして70 節71 節「すると、イエスは言われた。『あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」

イスカリオテのユダは、何度も悔い改める機会が与えられます。しかし主からの警告を何度聞いても、悪魔の器であるユダは、悔い改めるべきであったのですが、そうしませんでした。

主に従いながら、後に主を捨てて世に返り、また永遠の命を捨てて、罪と悪魔に返って行く人が、後にもいます。使徒パウロの弟子の一人であったデマスも、その一人です。テモテへの手紙二4 章10 節「デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまった。」

65 節66 節「そして、言われた。『こういうわけで、わたしはあなたがたに、【父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない】と言ったのだ。』このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」

主イエス様について来た多くの弟子たちは、主イエス様が、ローマ帝国に対して反旗を翻そうとする政治的、軍事的メシアではないことが分かってきました。イエス様は霊的な革命をもたらすことを意図して言われていました。彼らの弟子たちは、ふるいにかけられ、政治的軍事的メシアを求めていた弟子たちは、その野心が全く打ち砕かれてしまいました。そして多くの弟子たちが、イエス様のもとを離れ去りました。

67~69 節「そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。』」

イエス様は、ご自分の肉と血を捧げることによって、御自身を信じる者に、罪の赦しと永遠の命を与えることを知っておられました。ですから、イエス様は、弟子たちが去っても、動揺することがありませんでした。そしてイエス様は、その場に留まっている12 弟子に聞きました。ペトロの信仰告白は、「あなたのもとを去ったら、私たちには破滅が待っているだけです」と言い換えることが出来るかもしれません。

しかしペトロの信仰告白は、信じる面と愚かな面があることがマタイによる福音を見ると分かります。先ずは信仰告白の面ではマタイ福音書16 章16 節17 節「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。』」しかし愚かさを示しているのは続くマタイ福音書16 章23 節です。「イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」』

私たちは、誰でも弟子として、ふるいにかけられます。悪魔につく者か。それとも神様の聖者なるイエス様につく者か。悪魔につく者は、悪魔の導きに従い、悪魔の目的に仕えます。一方神様の聖者につく者は、イエス様が、人類に罪の赦しと永遠の命をもたらす方であり、父なる神様によって聖別され方として認めて、イエス様を信じて従い続けて行く者たちです。

いずれにせよ、最も重要なことは、ご聖霊とキリストに対する態度です。キリストは、父なる神様が油を注いだ、生ける神の御子、神の聖者です。しかしユダは、12 弟子の一人として、イエス様のところに留まっていました。けれどペトロの信仰告白には同意せず、ユダも去った弟子の一人でした。体はそこにいても、心は離れ去っていました。そこに留まったのは銀貨30 枚でイエス様を裏切り売るために残っていただけでした。

マタイによる福音書26 章14~16 節「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」

私も、そのままでは堕落した人類の一人であり、原罪を持ち、神様の御怒りの中で、滅ぼされる者です。にもかかわらず、救い出されて、主イエス様を証しするキリスト者また牧師とされています。滅びゆく人々に、キリストを証しする教会共同体とさらになれますように。祝福の基、平和の使者、復活の証人として、ご聖霊の力を祈り求めて、主イエス様を証し、宣教出来ますように。

最後に、キム・ギルという方の「心よ勝て」の中から「敵が私達を苦しめるとき」という内容を受け留めます。「霊的な戦が起こったら、その現象の背後に、私たちを攻撃する存在があることを、いつも意識して下さい。問題が起こり、人間関係がこじれ、生きるのが辛くなったとき、私たちは、サタンの攻撃に備える必要があります。

霊的な攻撃の特徴の一つは、自分に起こった出来事に対して、必要以上に感情的になることです。無性に腹が立ったり、恐れたり、寂しかったりしますが、それはその時だけです。霊的な攻撃を受けているときは、苦悩や恐れが波のように襲ってきて、『私の人生はもう終わりだ』と言う思いになります。

しかし、本当はそうではありません。それは、戦いの最中にあるという証拠なのです。ですから、状況と感情を分けて考えなければなりません。

以前の私も、そのような状況になったとき、われ知らず神経質になっていたので、子どもたちが、私の顔色を伺っていました。しかし、私の状態を正直に家族に話すようになってからは、余裕をもって、子どもたちに接することができるようになりました。自分の問題ではなく、サタンの攻撃であることを知り、互いに温かい心で接すると、平安を保つことができます。自分の苦しい状態について話すことのできる仲間を作ってください。怒りや不安の代わりに、神様の平安が私たちの心を治めるとき、サタンは力を失います。」

神様に愛されている皆さん、ふるいにかけられる時、自分の状態を正直に、祈りによって神様に打ち明け、また信頼できる仲間に吐露してゆきませんか。そして怒りや不安の代わりに、神様の平安が心を治めて頂けるように、ご聖霊と御言葉と交わりに生かされて行きませんか。

お祈り致します。

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