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2022.6.12ヨハネによる福音書 7 章 37~52 節「生きた御聖霊の水の流れ」

牧師 松矢龍造


皆さんは、今、渇いておられますか。イエス様は、人生に渇き、霊的に渇いている人たちに対 して、主のもとに来て、ご聖霊の生ける水を飲みなさいと言われます。かつて私も、渇いていま した。人生の意味も分からず、病気で何度も入退院する母を見ながら、何故病や死があるのか。 何故勉学しなければならないのか。分からず渇いていました。さらに自分の愛のない姿など、 様々な渇き、霊的に渇いていました。 そして主イエス様を、救い主として認め信じる者には、魂の核が満たされることを知りまし た。しかし主イエス様を拒む者の魂は、決して霊的に満たされることなく、渇きが癒されること もありません。主の恵みによって、救い主なるイエス様を信じ、魂の核が潤されました。それは イエス様を信じる者には、ご聖霊の生ける水が注がれ、魂が潤されるからです。 ある方が、人生の晩年まで、哲学をもって魂の飢えを満たそうとしてきました。しかし得られ ませんでした。そしてイエス様と出合い、初めて魂と霊の癒しを受けることが出来ましたと、洗 礼をお受けになられました。

このご聖霊による生ける水の流れに関しては、旧約聖書に預言されていたことでした。エゼキ エル書 47 章 1 節「彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下 から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出 て神殿の南壁の下を流れていた。」 9~12 節「川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多 くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべて のものが生き返る。漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網 を広げて干す所とする。そこの魚は、いろいろな種類に増え、大海の魚のように非常に多くな る。 川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れ ず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実 は食用となり、葉は薬用となる。」

主イエス様は、仮庵祭が最も盛大に祝われる終わりの日になった時、立ち上がって大声で言わ れました。「渇いている人、だれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」祭りの最終日は、八 日目です。初日から7日目まで、シロムという貯水池から、黄金の器で、水が運ばれ、神殿の祭 壇に注がれました。 それは仮庵の祭りにおいて、イスラエルが荒れ野において、いかに多く神様から恵みを受けた ことを覚えることと関連があります。荒れ野において、水に困り、渇ききっていた時に、創造主 なる神様が、モーセを通して、岩から水を湧き出せ、民の渇きを癒された出来事を記念するもの でした。 シロアムの池とは、南ユダのヒゼキヤ王の時代 BC715 年から 687 年に、エルサレムの城壁と内側に作られました。エルサレムは、高台にありますか ら、都には水を貯める貯水池が必要でした。このシロアムの池は、神殿の南側の谷間にありまし た。 仮庵祭の初日から七日間、毎日、祭司たちは、シロアムの池の水を汲み、神殿に持ち帰りま す。そしてエルレサムに来ていた参拝者たちも、池まで同行して、神殿の階段を上り戻ってきま した。 イエス様は、自らが生ける生命の水の源であると叫ばれたのは、シロアムの池においてか。あ るいは神殿に戻る儀式の途上か。あるいは祭りの八日目は、シロアムの池から水が運ばれません ので、その八日目に、ご自身こそ、生ける水であると言われたのかもしれません。38 節 39 節「『わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川と なって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について 言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかっ たからである。」 この霊は、ご聖霊のことです。イエス様は、十字架に付けられ、死にて葬られ、陰府に下り、 三日目に復活されて、栄光を受けられる時がまだ来ていませんでした。ですから、その後にペン テコステ・聖霊降臨がまだなかったので、霊がまだ降っていないと言われました。ご聖霊は、十 字架につけられた主イエス様の恵みと、復活の命を、イエス様を信じる者に、適応され、生ける 水を流されるお方です。 ローマの信徒への手紙 8 章 10 節 11 節「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪 によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活 させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、 あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださる でしょう。」 イエス様が、ご聖霊による生ける水の話をなされると、群衆の中で対立が生じました。原文で は「対立」は「意見が分かれる」「分裂」「不和」という意味でもあります。ある人は「この人 は、本当にモーセのような預言者だ」という者もあれば、「この人はメシア・救い主」という者も いました。しかし「メシアはガリラヤから出るだろうか」「メシアはダビデの子孫で、ダビデのい た村ベツレヘムから出ると聖書に書いたあるではないか」とイエス様を否定する人たちもいまし た。 旧約聖書には、メシアは、ダビデの末から誕生し、その誕生地はベツレヘムだと預言されてい ます。サムエル記下 7 章 17 節「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続 き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」イザヤ書 11 章 1 節「エッサイの株からひとつ の芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」ミカ書 5 章 1 節「エフラタのベツレヘムよ、 お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者 が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」 イエス様が育ったのは、ガリラヤのナザレでした。ユダヤ人の指導者たちは、イエス様が、ガ リラヤのナザレ出身なら、メシアではないと思っていました。このユダヤ人の指導者たちは、イ エス様が、ダビデの出身地であるベツレヘムで生まれたダビデの子孫にあたるという理解があり ませんでした。そしてイエス様を捕えようと思っていたましたが、神様の時か満ちておらず、ま た群衆を恐れて、この時イエス様に手をかける者はいませんでした。 ところが、民衆の中で意見が分かれる中で、第三の意見を持つものが出てきます。それは、ニ コデモというファリサイ派の教師であり議員でした。ニコデモは、最高法院に属する議員であり ながら、イエス様のところに、人目につかない夜に訪問した人でした。 ところが、この時は、イエス様を弁護する者に変えられていました。51 節「我々の律法によれ ば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならない ことになっているではないか。」 これは旧約の律法の一つである申命記 19 章 15 節の引用でした。「いかなる犯罪であれ、およ そ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証 言によって、その事は立証されねばならない。」 そしてニコデモは、最終的には、命の危険を顧みることなく、十字架につけられたイエス様の ご遺体を墓に納める為に、公然と協力した人となります。ヨハネによる福音書 19 章 38 節 39 節 「その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタ ヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したの で、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあ るニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。」 私たちは、イエス様のことを何と告白するでしょうか。しかもその信仰は、ニコデモのように 成長し続けているでしょうか。自分の命よりも、イエス様を第一にする信仰の成熟へと進んでい るでしょうか。

生まれながらの人間は、神様の御霊に属することを受け入れません。コリントの信徒への手紙 一 2 章 14 節「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚か なことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」 サタンは、人々に、イエス様を信じさせない為に、人間の頑なさ、頑固さ、自尊心、偏見など を利用します。そうならない為に、私たち自身の為にも、隣人の為に、ご聖霊の働きと助けを祈 り求めることが誰にでも必要です。罪の赦し、神様との和解、平安と安心、聖潔と真の幸い、そ して、とこしえの命は、全て、ご聖霊にかかっています。 あなたも渇きの中で、生ける神様とその生ける、ご聖霊の水を求め続けませんか。そして御聖 霊によって潤されたなら、恵みの人、憐れみの器となって、隣人の渇きに、イエス様と共に、仕 える者となりませんか。 最後に、エレミヤ書 2 章 13 節と、イザヤ書 55 章 1 節を拝読して閉じます。「まことに、わが 民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水をため ることのできない、こわれた水溜めを。」「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」 お祈り致します。

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