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  • 執筆者の写真CPC K

2022.6.15ダニエル書 3 章 1~30 節「たとえそうでなくても」

牧師 松矢龍造


主なる神様は、困難さや迫害を、神の民にあえて許される時があります。しかしそれは、神の民の純化の為であったり、御自身こそ、真の神であることを示される機会とされたりします。ですから、試みと試練の中で、主なる神様を否むことなく、むしろ万事益とされる御摂理の主に信頼する機会となりますように。

今日の御言葉の中にあります「たとえそうでなくても」という内容は、世々の迫害を受けた神の民の場面を思い起こします。その一つとして、かつて韓国のキリスト者が、日本軍による迫害を受けて、神社参拝を強要された際に、安利淑というキリスト者が、たとえ殉教しようとも、拒否する姿が記された書物のタイトルとなったことを思い出します。

ダニエルによる夢の解き明かしを受けたバビロンの王ネブカドネツァルは、自分の見た夢からヒントを得たのか、一つの金の像を作りました。しかし夢で見た像は、頭だけが純金であったのに、作らせた像は全身を金で作らせました。それは自分の王国の永続を望んだのではないでしょうか。

ということは、この像を作った時、ネブカドネツァル王にとって、ダニエルたちの神様への献身が一時的なものであり、夢の背後におられる唯一の神様を恐れず、この主なる神様に従いもしなかったということです。

作らせた像の高さは、高さが約 27mで、幅が約 2.7mです。紀元前・BC5 世紀と 1 世紀の歴史的資料によれば、バビロンに建てられたゼウスの金の像の事が記されていると言われます。もともとバビロンの主神であるベルの像であったとも考えられています。

王は、宗教の統一力を利用して、自分の帝国の結束と安泰を図ろうとしたのでしょう。そして国家を一体化させ、自身の力を誇示する作戦に用いたのではないでしょうか。そしてこの像を拝まない者は、直ちに燃え盛る炉に投げ込むとしました。まさに王の専制的、独裁的、偶像礼拝の強要です。キリスト教の歴史の中に、このような世の権力者から、偶像礼拝を強要される例は、沢山あります。

この金の像の除幕式に、国中の高官たちが集められました。そして音楽が奏でられました。古代中近東の礼拝と祭りにおいて、奏楽は大切な要素でした。また古代の寺院や宮廷では、音楽が必須でした。王のオーケストラの6つの楽器のうち、二つの角笛と二管の笛はセム的起源をもつ楽器であり、他の三つの三角琴とハープと風笛は、ギリシア的でした。ですからあらゆる文明の楽器によって、序幕式を執り行ったということです。ギリシア文化は、新バビロニヤ以前に近東に浸透していました。

金の像が立てられた場所は、ドラということですが、詳細な場所は不明とされています。ドラとはアラム語で「砦」あるいは「城壁」という意味ですから、バビロンの城壁の外を意味するとも考えられています。

この時、何人かのカルデア人が、ユダヤ人を中傷しようと進み出て、ネブカドネツァル王に次のように言いました。9~12 節「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。御命令によりますと、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえたなら、だれ

でも金の像にひれ伏して拝め、ということでした。そうしなければ、燃え盛る炉に投げ込まれるはずです。

バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません。」

王はこれを聞くや、怒りに燃え、三人を引き出しました。この時、どうしてダニエルが、ここにいなかは、記されていません。一つの説は、王がバビロンの都を留守にしている間、ダニエルは、有事に備えて、行政の中心地である主都に、王の代わりに留まっているように言われたのではないでしょうか。

ダニエルの三人の友たちは、バビロンにおいても、神の律法に従って生きていました。このような場面では、出エジプト記 20 章 3~6 節を思い起こします。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。

あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」

三人の友にとって、金の像を拝めという王の命令は、信仰に背けと命じられていることと同じです。三人にとって、生死の分かれ目となる危機でした。全能の神とその力に忠誠を示すのか。それとも偽りの神に忠誠を示すのか。三人は、背教者になるよりは、むしろ信仰のために、死に赴くよう備えると言いつつ、彼らの神様への忠実さを明言します。

17 節 18 節「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」

創造主なる神様には、信仰者をその窮地から救う力があります。三人が応えたのは、そのことを否定しているのではなく、創造主なる神様が、ここで三人の信仰者を、燃え盛る炉から救う意図がたとえなかったとしても、金の像を拝まないということです。

三人は、信仰の故に、たとえ神様がこの燃える炉の場面で、介入してくださっても、なさらなくても、金の像を拝みませんでした。19 節で、王は三人に対して、血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱くするように命じました。炉の温度は、当時、風を送り込む、ふいごの数で調整されていました。そのふいごの数が7つあったとも考えられますが、7は完全を表す数字なので、最高温にするという意味でしょう。

この燃え盛る炉は、上部と下部に口がある大きな石窯と考えられます。三人は、上着、下着、帽子、その他の衣服を付けられたまま縛り上げられ、燃え盛る炉に投げ込まれました。その時の炉の状態は、彼らを引いていった男たちさえ、焼き殺される火と温度となっていました。

この時の三人の様子を、70 人訳聖書によれば、「彼らは神を賛美し、主をほめたたえ、炎の中を歩いた」で始まる神様への長い讃美が挿入されていると言われます。間もなく、王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねました。「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか」。側近たちは答えます。「王様、そのとおりです。」

王は言いました。25 節「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」この四人目は、主なる神様に仕える超自然的な存在である天使を見たという説や、受肉前のキリストであるという説もあります。いずれにせよ、この第四の者が、三人を救い出したのです。

三人は、体も、髪の毛も、着ていた服も、損なわれず、彼らを縛っていたものだけが失われていました。王は、これを見て言いました。26 節「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」

「いと高き神」とは、イスラエルだけでなく、他国人が、神を呼ぶときの称号です。この時、王は、三人の神に対して用いました。そして 28 節 29 節「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。

わたしは命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはない。」

ただし、王の言葉には、三人がこの神様に従うことを許しましたが、ヘブライ人の神だけに仕えるように確約しているわけではありません。ただユダヤ人の神をののしる者への罰を命じました。原文で「ののしる」と訳された言葉は、不敬なことを口にしたり、侮ったり、罵ったりしてはならないということです。しかしこの危機を通して、唯一真の神の存在が示されたことは、間違いがありません。

私たちは、この危機的状況を通して、少なくても、いくつかのことを教訓として覚えることが大切です。第一に、エルサレムと神殿が破壊されても、主なる神様は、異国の地で、御自身を信じる者たちと、共におられることを明らかにされたということです。イザヤ書 43 章 2 節「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」

第二に、どんなに少数者となったとしても、創造主にして、救い主なる神様は、確かにおられ、最善をなしてくださるということです。この三人という少数であっても、後の時代の信仰者に対して、どれだけ信仰の益となったことでしょうか。ローマの信徒への手紙 12 章 1 節 2 節「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

第三に、主なる神様が、備えて下さっている永遠の報酬は、どんな苦難をも乗り越える価値があるということです。ローマの信徒への手紙 6 章 13 節「また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」

主イエス・キリストを死者の中から復活させた力と同じ力が、ダニエルの三友をこの燃え盛る炉の中から救い出されました。エフェソの信徒への手紙 1 章 18~21 節「心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。

また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」

神様に愛されている皆さん、私たちも同じ主が、困難の中で共にいてくださることを覚え、信頼し、信仰を貫いて行きませんか。ご聖霊様の助けを祈り求めながら。

お祈り致します。


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