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2022.6.19 ヨハネによる福音書 7 章 53 節~8 章 11 節 「さばきと憐れみ」

牧師 松矢龍造


ある賢者がこのように言われました。「堕落した人間の心は、自分よりも悪い人を見つけると、その心が安らぎ、落ち着く。他の人の罪の方が大きいので、自分は免責されると思うからであ る。そして、他人を告発し、猛烈に責めるときに、自分の悪を忘れる。そのようにして人は、不義を喜ぶのである。」

人をさばくと、自分が上だと思うことは、甘い蜜であり、一度それをすると、その甘い蜜を求め続けます。堕落した人間の弱さと罪の姿です。しかし自分に罪がある者は、本来、他の人を非難し、さばくべきではありません。むしろ、人をさばくことで、自分を罪に定めてしまうことになります。ローマの信徒への手紙 2 章 1~3 節「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。」

仮庵祭が終わり、人々はおのおの、家へ帰って行きました。イエス様は、オリーブ山へと、おそらく祈りの為に、行かれました。イエス様の言葉を思い出します。マタイによる福音書 8 章 20 節「イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。』」

オリーブ山は、キドロンの谷にまたがる約 4 ㎞続く低い尾根で、エルサレム神殿の東約 2.4 ㎞にありました。斜面に生えるオリーブの木から、その名がとられています。イエス様が良く祈りの場とされたゲッセマネの園も、このオリーブ山の麓にあります。

イエス様は、祈ってから、再び朝早く、神殿の境内に入られ、民衆が皆、自分のところにやって来たので、座って教え始められました。古代の教師は、通常、教える時に座りました。これは教師の権威を示すものでした。

そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、イエス様を試して、訴える口実を得る為に、やって来ました。律法学者は、律法を学ぶユダヤ教の学者であり、律法の教えによる生き方を、人々に説く人々です。律法学者の多くが、厳格に律法を守ろうとするファリサイ派に属していました。

彼らは姦淫の現場で捕らえられた女性を連れて来て、真ん中に立たせました。そしてイエス様に対して 4 節「先生、この女は、姦通しているときに捕まりました。こういう女は、石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたは、どうお考えになりますか。」

姦通と訳された言葉は、原文では、当事者の一方、または相方において、夫婦間の誠実を裏切り、他の異性と性的に関係することです。類語として、ポルネイヤがあり、この言葉は売春婦と関係することで、転じて不道徳な性的関係一般を指します。これに対して、姦通と訳された言葉は、夫婦間の誠実の裏切り、結婚の人格関係の破壊、家庭の侵犯を含む概念です。

旧約聖書の申命記 22 章 22~24 節ではこうあります。「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」

律法に厳格なファリサイ派の律法学者であるならば、姦淫を犯した女性だけでなく、関係した男性も連れてこなければならなかったはずです。ですからユダヤ教の学者たちは、女性だけを逮捕することによって、律法を無視していたことが分かります。ですから彼らの意図は、姦淫に対する憤りよりも、イエス様に対する悪意に、いかに満ちていたかということが伺えます。

彼らは、イエス様を試し、訴える口実で、質問してきましので、石打にすると言っても、言わなくても、どちらに答えても、訴えることが出来るとして質問してきたのです。もしこの時、この女性を赦せば、それはあきらかに律法違反者として、イエス様を捕まえる口実となります。

逆にローマの支配下のユダヤでは、死刑執行権がないのですから、石打の刑を認めるならば、ローマの法秩序を無視する犯罪者として、訴えることが出来ます。

もっとも死刑は、ローマの権限とはいえ、熱狂的な民衆が、石打の暴挙に出ることは、ままあることでした。初代教会の最初の殉教者ステパノの場合がそうでした。使徒言行録 7 章 57~60 節「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。

人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでくださ い』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」

するとイエス様は、かがみ込み、指で地面に何かを書き始められました。イエス様が、かがみ込んだのは、自らを裁き人としないためか、あるいはファリサイ派の律法学者たちの罪を指摘するためでしょうか。

そして地面に何を書かれていたのでしょうか。『義人はいない、一人もいない』という律法を書かれていたのでしょうか、あるいは、その罪を自分が十字架でその身に負うと書かれていたのでしょうか。いずれにせよ、聖書が記さないものを、こうだと断定することなく、聖書が示していないなら、何か書き始めた。あるいは身をかがめて、地面に書き続けられたとだけで、止めるべきでしょう。

7 節「しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』」

イエス様は、罪のない者が、最初に手を下すように、彼らに勧めました。人間が普遍的に持つ、原罪と罪の問題へと、彼らの目を向けさせました。

9節「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」人は皆、生まれながらに原罪を持って生まれてきます。そして年を重ねるほどに、罪の生活を重ねて来たことを自覚して行くのではないでしょうか。ですから、年長者から始まって、一人また一人立ち去って行ったのではないでしょうか。執行者たち自身が完全無欠ではないのですからです。

さばくことは、神様の役割であり、私達人間の役割は、赦しと憐れみを示すことです。ある方がこのように言われていました。「イエス様のまことは、学者ファリサイ人の虚偽を責め、イエス様の純潔は、女性の情欲をとがめた。」

10 節 11 節「イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」

主イエス様の知恵と権威は、ファリサイ人に勝ち、かえってご慈愛と威厳を表されました。しかしイエス様は、この女性を罪に定めませんでしたが、これからは罪を犯してはならないと言われました。その女性の罪をイエス様が十字架で身代わりに負われるので、罪に定めないと言われたのでしょう。しかしもう罪を犯すなとも言われました。イエス様の寛容と峻厳の表われです。このイエス様の愛が、この女性の心を開かせ、そのイエス様の慈愛の中で、感化をお与えになったのでしょう。

かつて見えず、聞こえず、話せない、三重苦で知られる ヘレン・ケラーに、心を開かせ、新しく変化へと導いたのは、愛の故であったことを思い出します。三重苦に悩んだヘレン・ケラーは、その生涯で、彼女の心の内に、一点の灯がともされ、新しく人生を踏み出すきっかけになった出来事がありました。

ある日、いつものようにサリバン先生が、幼いヘレンをひざの上に乗せて、おさらいを始めました。先生は、ヘレンに「愛とは何ですか」と手の平に文字を書いて尋ねました。後にヘレンが述懐しているように、三重苦にとって象徴的な概念を理解するのは非常に困難な事です。ヘレンは、その時、「サリバン先生が、初めて家に来た時、私の頭に何か温かいものが流れ落ちました。それが愛です。」と答えています。

サリバン先生が来るまで、三重の苦悩は、ヘレンを強情な性格の女の子にしてしまっていました。しかしサリバン先生が、ヘレンの上に落とした涙は、石のように堅くなっていたヘレンの心を砕き、氷のように冷え切っていた彼女の心を解かし始めました。どんな力や権力も、またどんな知識や能力、医学や技術でも、どうすることもできなかった、堅く閉ざされた心の戸を開いたのは、愛でした。

この女性は、イエス様のご慈愛に心が解かされ、罪の告白と、悔い改めに導かれていったのではないでしょうか。神様が助けてくださるので、私たちは、キリストの赦しを受け入れることが出来、悪事を働くことを、ご聖霊の力によって止めることが出来ます。

誰も霊的な姦淫を犯しています。それは神様以外のものを第一とする偶像を持っています。また心の中で、淫らな思いで異性を見るなら、それは心の中で姦淫したことであるとイエス様は言われています。

誰も、自分の罪をたなにあげて、人を非難してさばくことはでせきません。むしろ私たちは、自分の罪を父なる神様の御前に告白し、悔い改めて、イエス様の十字架の赦しと、復活の力を頂くことが、誰にでも必要です。そしてご聖霊様によって、御霊の実を頂いて、罪を犯し続けず、むしろ寛容と自制の実を結ばせて頂きませんか。

お祈り致します。


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